新薬史観

地雷カプお断り

サミュエル・ベケット「ゴドーを待ちながら」安堂信也 高橋康也 訳

古典に全く明るくない自分だが(そもそもあらゆることに知識がない自分だが)背表紙に「現代演劇の神髄!」と書かれているのを見ると、「現代演劇の神髄なのか」と素直に信じるほかない。神髄というからにはこれまでとこれからの現代演劇に通底するなんらかのテーマを有しているはずであり、なかなか面白そうだと手に取った。

浅学の自分でも名前だけは知っている名作の「ゴドーを待ちながら」である。自分はこれをどこで知ったのか、「ゴドーは来ない」というネタバレだけを把握していた。確か、部活をやめる桐島くんも最後まで出てこないと聞く(最後だけ出てくるんだっけ?)。何はともあれタイトルに偽りはない。浮浪者じみた男二人が、ただゴドーを待つだけの話である。

それでは簡単に感想を言うが、この物語はびっくりするくらいに登場人物の会話が成り立っていない。

「なんだっけ?」

「あれだよ」

「あれってなんだ?」

「それより空を見ろ」

「ああ、お腹がすいたな」

「なあ、俺たちは何をしているんだっけ?」

「夕日が沈むのを見ている」

こんな感じの中身と文脈のない会話が(原作中にこんな会話はない)延々と続く。何がダメかって、登場人物のひとりエストラゴンの物覚えがとにかく悪いのだ。こいつが諸悪の根源である。マジで自分がゴドーを待っていることを忘れすぎている。待っていることを忘れ、すぐにどっかに行こうとする。自分が言っていたことや文脈を忘れる。行動に落ち着きがない等々。で、もう一人の男ヴラジーミルはやたらとエストラゴンに固執していて、ゴドーよりもエストラゴンが隣にいてくれればよさそうな感じである(これは言い過ぎかもしれない)。というより、明確に立場わけがなされていて、ウラジーミルは留まるイメージ、エストラゴンは動くイメージだろう。その両者の関係であっちこっちにいったりして、結局同じ場所にとどまり続ける。そんな感じの話である。

物語として面白いかといわれると、劇的な動きがないためにあまり面白くない。当時は批判がすごく、現代でいうところの「炎上」をして逆に興行的に成功したらしいが、金を払ってみた人はお気の毒にというお話だと思う(自分は名作として担保されたものを読んでいるから全然大丈夫だが)。

とはいえ、この物語の会話のテンポは好きだ。反復が多いので、ただワンシーンとして切り取ると面白い。一方で、細かな言葉遣いからは聖書の引用や参考文献が山ほどあるらしく(注釈・解説に感謝)非常にコンテキストに富んだ作品だと感じる。あと聖書のイメージが強いのだとも。全体を見渡すと退屈ではあるのだが、ひとつひとつ注釈を見て多様なイメージを膨らませる分には面白いし、自分はこの作品が好きだと思う。

一方で、この作品が何を伝えたいのかというのは確かに不明瞭だと思う。実際にこれまでに大量に解釈がされているらしく、やれゴドーはゴッドであるだとか二人の関係がああだこうだと彼らを作品の外に持ち出して議論を進め、解釈を進めているらしい。

幸いにも自分は背景知識が一切ないので、自分が読んだテキストでしか物事を判断できない。その結果、この作品は読者を取り込んだ構造をしているのだという結論にしかならなかった。具体的に言うと、ゴドーを待ち続けるふたりのように読者や観客はこの作品の「オチ」を待ち続けなければならず、一度見始めた以上その作品から逃れることはできない。つまり「どうにもならん」のである。

なんのひねりもないが、舞台はきっと何か起こるはずだという観客の期待を裏切り、不条理(なのか?いまいち自分は不条理の意味がわかっていない)な展開で今日も人々のオチを求める思考を絡めとっているのである。道理的な展開では(主な)解釈はひとつに絞られるのに対し(カプ解釈がそうである!と私は声を大にして何度でも言う)、不条理な展開は人の解釈を拒むためにそういうことになる。「ゴドーを待ちすぎだろ、結局来てねえし」と二人の男を笑う前に、「オチもなにもないこの作品をあなたは最後まで読んでいますよね?」ということをやりたかったのかなと。

まあ、違うだろうなあとは思う。実際に聖書の引用からして、なんらかの暗喩が秘められているのは想像に難くない(実際に注釈ではびっくりするような言語の紐づけがさてていたりする)。

でも、自分はこの辺りでいいかなあと思う。僕はゴドーを十分に待った気がする。そろそろ動かなければならない。あ、あなたもそうなんですか。ですよねえ。次に読みたい作品もいっぱいあるし。

それじゃあ、僕たちはもう「ゴドーを待ちながら」について考えるのはやめさせていただきます。

 

沈黙。

 

そして誰も動かずに、また「どうにもならん」エストラゴンの姿を見ることになる。