新薬史観

地雷カプお断り

桜井晴也『人類の最後の夜』読んだ!

久しぶりの感想。知り合いに教えてもらったので読んでみた。作者さんがブログで無料公開されているので、気になった方は是非読んでみてください。

首吊り芸人は首を吊らない。

 

あえて文章をややこしくしており、自他の境界を曖昧にし、言葉を誰かの所有物にしないようにしている印象を受けた。そのうえ、境界に触れる単語の数々を平仮名でひらくことによって、分断や刺激を極力弱めようとしているように思う。

恐らくだが、この文体はもろに岡田利規の影響を受けているのではないか。作者さん好きらしいし。戯曲『三月の5日間』も同じような回りくどい言い回しによって、戦争とか人間関係における言語の責任をなすりつけ合っている(そこから離れている)印象があるので、この作品でも同じことが行われているのかな。

作品内容としては、沢山の人間を殺した男と、その男の恋人の女の話だが、上記の通り序盤は(中盤からかなりすっきりする)ややこしい文体で非常に文意が読み取りにくい。流れとしては、「大量殺人した俺をお前は軽蔑しないだろう」と男は言い、女は「わからない」と言うのだが、それをなんとか知りたい(はっきりさせたい)両者による問答が始まる。男が「俺はお前を愛している」と言うと女は「それはわかる」と返すが、今度は男が「いや分かっていない。お前は俺を軽蔑している」というやりとりがかたちを変えて何度も行われる。

以下引用。

あなたがそれをわたしにわからせようとしていないんだよ、ねえ、こうやってあなたの顔を見つめていると、あなたの顔の部分部分からあなたの欲望が糸をひいてたれさがっているように思えてしかたがないんだ、あなたはその欲望の糸にからめとられてもがきながらあなたの愛をただしいものにしようとしているみたいだ、ねえ、わたしを愛することがあなたにとって究極的にただしくなければあなたはわたしを愛することはできないのかな、わたしはただあなたの愛のただしさを証明するためにだけ愛されているのかな、そんな愛しかたなんて、わたしにとってはもう暴力でしかないんだよ、あなたがわたしを愛しているそのかたち以外にもたくさんの愛のありかたがあるはずなのに、あなたはただあなたのなかにあるたったひとつの愛のありかたを正当化するためだけにわたしのなかにあるたくさんの愛のありかたを踏みにじって、そして傷つけている、ねえ、わたしはあなたの愛のただしさを証明するために存在する奴隷じゃない、いまのあなたは、まるで、わたしに知恵を持たせないために生きているみたいだ、わたしが知恵を持つとあなたというにんげんの一部がそこなわれて、その欠けた部分を暴力で埋めあわせなくてはいけない、あなたはそう思っているようにわたしには見えてしまう、あなたがそう思っているとしたらそれはとてもひどいことで、そんなふうになってしまったわたしたちのおたがいの思いかたもまたとてもひどいものだよ。

結局「一方的に他人を愛し、束縛すること」のひどさを告発している文章だが、この辺りは前の男の「おまえは~はずだ」という決めつけによる不快感によるものだろう。ただ男がこうするのにも理由があって、男曰く他人から愛されることで薄皮を剥がされる、それが人間であるのだという。男にはそれが堪えきれず、自分の薄皮は自分の好きな人にだけ剥がされたいとので、世界の人類をすべて殺害したという話に繋がる。すべては男の考える愛についての不信感の話で、以降の記述でも、愛することがひどく残酷、利己的なもので、どろどろしていて、「隣にいるから」という理由があってようやく「他人」に施しを与えようという気持ちになる程度には愛は軽薄なものだと男は思っている。そんなだから男は「女が男を愛している」という軽薄な事柄に不快感を覚えてしまうという話だ。

そんでここから視点が変わり、ある村の女の子と女の子の話になる。ここからはいい百合なので是非読んで欲しい。

登場人物に作中の男のような立場の人間として、女の子の父親が出てきて、生まれる代わりに愛する妻を殺した自分の娘に本気で罪を償ってもらおうと考えている。ただ、それはそれとして男自身も妻を愛したように憎い娘を愛そうとしており、それは娘も「産んでくれたけど顔を見たこともない母親を愛せない苦しみ」を抱いている点で父親と同じである。父と違うのは、娘には自分を愛してくれる幼馴染みの女友達がいることだ。

ここでは「愛せない人をどのように愛するか」というテーマが「愛する/愛せない=罪」という観点のもと繰り広げられる。

女友達は、愛すべき人を愛せなくても、誰かを愛したという気持ちを拠り所にして生きるべきと諭すのだが、その言葉に救われた娘は女友達にもらった分の愛をどのように返そうか考えるなかで、ある村人の金貨を盗み、結果として多くの人を殺すキッカケを作ってしまう。以下はその後の娘の女友達の台詞。

わたしを殺しなさい、と彼女の友達は言った、あなたはわたしのために罪を犯した、だから、あなたの泥棒の罪はわたしがすべてをうけおう、それをきっかけにして村のひとたちのすべてがたがいを殺しあってしまった罪もわたしがすべてうけおう、あなたは、これからわたしを殺した罪だけをうけおえばいい、でも、それはけっしておおきな罪じゃない、だって、あなたはわたしににくしみなんて抱いていないんだから、だから、それはあなたひとりでせおっていけるはずだ、彼女はその鍬を手にとってたちあがった、彼女の友達は彼女のまえにひざまずき、その足につよく唇をおしあてた、愛しているよ、と彼女の友達は言って、泣いた、彼女はその鍬を彼女の友達の頭に思いきりふりおろした、大地に、この地上で最後の血が流れた。

ここで女と女友達の回想は終わるのだが、このシーンで語られていることは罪のなすりつけあいなんじゃないかなと思う。女友達は否定するが、「愛すべき人を愛せないこと」は罪であるという考えが父親と娘を支配しており、この観念は上で述べた男の女への愛の不信感の基にもなっている。で、父親は「愛すべき人を愛せない」ために自殺したのだが、女の子二人は「愛せないこと」を罪とせずに、「愛せない人(娘)に自分を愛するように近づいてしまった」女友達の方に罪をもたらそうとする。

以下は回想を終えた男の引用。

罪の前提には愛を必要とするんだよ、愛されているから罪を感じるんだ。
 彼女は沈黙をした。
 もうすぐ俺は世界で最後のにんげんを殺しおえる、でも俺はおまえと生きつづけるよ、俺はおまえを殺さない、だからおまえも俺が世界のすべてのにんげんを殺した罪によって俺を殺さないでくれ、罪は俺たちがほんとうに愛しあったあとにやってくるんだ、俺たちはこれからも世界のすべてのにんげんを殺した罪を抱えたまま生きていくんだよ、そして俺たちも俺たちの巡礼をはじめるんだ、俺ひとりでじゃない、ふたりでいっしょにいくんだ、俺たちはこれから人類が死にたえた道をふたりでどこまでも歩いていくんだよ。
 あなたは、あのひとに感化されたんだね。

 ここで、先に述べた「愛する/愛せない=罪」というテーマが明かされる。この公式よりも罪の前提に愛があるという表現の方が正しく、逆に考えると、罪を感じることでようやく愛を感じることができるという図式が生まれる。これこそ男(と女)が望んでいたことであり、「愛を感じたいがために罪を犯し、その罪が成立するまでは、愛を感じるまでは罪を罪として終わらせないで欲しい」という意見がようやく認識できるようになる。ここまで来るのが本当に長かった。

彼は彼女のそのしぐさをせつじつな目で見つめていた。彼女の頬に月の光がふれ、青白く染めていた。泣いているようだった。
 おまえの横顔は世界を爆撃しているようだよ、と彼は言った。
 すこしふとったかな、と彼女が訊いた。
 なにが。
 指が。
 指は、ふとらないだろう。

ここは単に自分が好きなところで、横顔が世界の爆撃をするという表現の良さもさることながら、これは女自体も世界の人類を殺害した可能性を示す。また、これまでずっと自分の感情を頼りに事実を作る男と、事実を基に感情を作る女の対立があったのに対し、女からコップの水のなかの指を見て「(錯覚で)ふとったかな」と発言し、男がそれを否定するところに立場の逆転がある。要するに、この後でも告白されるが、冒頭で男が女に感じていた不信感を女も感じており、その逆転が非常に巧く表現されているように思える。

 数千年後、彼は世界のまんなかの道を歩きつづけていた。夜を失った世界はおだやかな陽の光を彼にあたえつづけていた。彼はやわらかなパンを右手に、おおきな花束を左手に抱えていた。ふりむくとそこには彼女がいた。彼女はいつでも彼のうしろにいた。彼は道にくずれおちた。歩きつかれ、足はもう動かなかった。彼女は彼にそっと近より、そのかたわらにしゃがみこんだ。世界にはだれもいなかった。花は枯れ、パンは石に変わっていた。彼は大地を見つめていた。彼はその大地に接吻したいという誘惑にかられていた。そこに接吻をすれば、彼にとってのすべてが完全になるような気がした。でも彼は接吻をしなかった。大地から目をそらし、よわよわしい視線で彼女の顔を見つめた。彼女はふところからちいさなパンをとりだし、彼にわたした。彼はそのパンを手にとり、数千年ぶりの涙を流した。彼女のなかに、すべての人類がやすらかにねむっていた。

ラストシーンだが、ここらへんは上記の男の「愛を感じたいがために罪を犯し、その罪が成立するまでは、愛を感じるまでは罪を罪として終わらせないで欲しい」という思想を基にした美しい描写になっている。ここで行われている「大地への接吻」は、物語(男の回想)のなかで村の住人を殺した娘が行っていた贖罪の証であり、これをすることは罪を罪であると認めること=二人の間に愛が成立したと確定させることである。それをせずに、冒頭で男が例としてあげたように、また物語で女友達が女にしたように、隣にいる女が男のためにパンをあげるという行為に「愛」が表現されている。

かなり巧い作品だと思った。

 で、作者のこの愛についての考えはブログのタイトルや作者紹介にも反映されているような気がする。

ある売れない芸人が、支配人に言った。
「絶対に観客に受ける芸を思いつきました」
支配人は言った。
「ほう。それはどんなものだい?」
「舞台の上で首を吊るんです」
支配人はしばらく考えたあと、こう言った。
「だけどきみ、その次の日はどんな芸をするんだい?」

 

 『首吊り芸人は首を吊らない。』作者紹介 

ここで言われているのって、何かを得るために楽をするな(死ぬな、というより罪を背負うなという方面が近いかな)ということであり、まんまこの作品に当てはまると思う。見えないものを見ようとするための手段として非常に地道な作業を好むというか、まあそう考えると作中の娘は簡単に接吻をしたという点でその愛の真偽性が疑われることになるので複雑だけど、それはそれとして作品としての完成度はかなり高くてよかったと思う。最初の回りくどさをもう少し軽減させてもいいのかな(すっきりさせても開いた文章でこの岡田利規っぽい空気感はそこまで損なわれない)とは思ったけれど、この辺りの感想はお節介だろう。とてもいいものを読めた。有難うございました。同作者の「世界泥棒」を読んでみたいですね。