新薬史観

地雷カプお断り

他人のために役割を固定化されるのはストレスがすごいという話

予め書いておくが自分は男であり、男2人とルームシェアをしている。この男三人に(恐らく)恋愛感情はなく、あくまで経済的であるという理由のみによって集まっている。つまりこれから書く文章は男だけの生活空間で起こっているということをご了承いただきたい。

ここ数週間、自分は家事に忙殺されていた。というのも、同居人のひとりが非常に多忙になり、もう一人は家事をまったくしないからである。これまでは前者と自分で家事を回していた(つもり)だったのだが、前者は部屋に籠もり、後者も部屋に籠もってゲームに真剣になることで、炊事洗濯掃除ゴミ捨て諸々の全てを自分がする流れになった。というより、単に他の人間がしないために自分がする他なかった。家事分担をしろという話なのだが、生活リズムやらなんやらで他の人間は夜型、自分はきっかりとした朝方のため、ゴミ収集車やら朝食の準備やらを考えると、自分が動く以外に部屋の時間が動き出すことはなかったのだ。それから、トイレの便器の汚さや床の汚さ、米の保温時間など細かいところが気になるのが自分だけだったという点にも理由がある。結局、他の人間は気にしないことを自分だけが気にしているという構図が作られることで、「結局この家事をするなら他の家事もまとめて行ったほうが効率がいいな」という気付きのもと(実際にやってみると分かると思うが、家事は決してそれ自体で独立しているわけではなくすべてが微妙な部分で結びついている)、「あくまで自分の時間効率のために」家事全般を行うことになったのだ。

で、まあここまではまだ良かった。自分は掃除が嫌いなわけではないし、それぞれにそこまで時間がかかるわけではないからだ。

問題は「食」だった。

自分は1日3食の飯を食わずには居られないタイプの人間である。空腹感という名の銃を突きつけられた自分は、モルカーのごとき大粒の涙を零すことになるため、自分の機嫌のために自分で大量のご飯を用意せねばならない。ところが、同居人とはその食に対する意識が違っていた。先にも述べたように、他2人は夜型であり、1日に一度晩飯を食べるだけで事足りるというのだ。ここに大きな食に対する断絶があった。つまり、自分だけが食に飢えているのに対し、2人はそこまで食を求めていなかったのである。

結果的に「食」の準備も自分ですることになる。朝昼は自分の分だけで事足りるのだが、晩飯となると話が変わる。その時間には同居人は起きているため、晩飯は必然的に三人分の量が要求されるのだ。同居人は「あったら食う」スタンスのため、自分から料理を作ることがない。一方で自分は腹が減っている。嫌がらせのように自分の分だけを作っても良いのだが、光熱費や食材費を考えるとまとめて作った方が安上がりである。

さて、自分はどちらかといえば料理は好きなほうである。決して美味い飯を作れるような腕はないのだが、買い物は外出と散財を兼ね合わせたストレス発散になるし、何も考えずに鍋を煮込み続ける虚無の時間も、それはそれで落ち着く時間である。そのため、食を作ること自体もそれほど負担にならないと楽観的に考えていた。現に、これまでは二者で交互に回されていた料理番は、決して苦痛なものではなかった。

「自分のために作る料理」と「他人のために作る料理」の違いに気がついたのは、一週間後、自分が「料理をつくる役割」であると自覚した時である。料理を作りテーブルにおいても、片方は部屋に籠もり、片方はゲームをやめようとしない光景に、自分はふと母親の怒りを想起した。

母親か父親か、その関係性は問わない。幼少期に誰かしら料理を作ってくれる人が身近にいた人は、「ご飯の前にお菓子を食べないで!」や「ご飯が冷めるから早く食卓に来なさい!」「ゲームを辞めなさい!」と怒られたことがないだろうか。自分は結構ある。割と毎日母に怒られ、「うるせえな黙ってろ」と思っていた。

ところが今、自分ではなく「誰かのために」料理を作るようになり、擬似的に母親の立場を経験することになって、「自分の料理を暖かいうちに食べてもらえない」ことに対するストレスがはっきり理解できるようになってきたのである。そしてストレスというのは、これだけに留まらないのである。

以下列挙。

①「いただきます」も無しに無口に食い始めるな(「出されたから仕方なく食っている」感が出てめちゃ辛い)

②黙って食って部屋に消えるな。何かしらフィードバックが欲しいから料理の感想を言え(同人活動における「感想が欲しい」欲求と非常に近い)

③何もしていないんだからせめて食器は洗え(食器を洗ってもせいぜい5分、買い物や調理時間を考えるとこちらは1~3時間くらいは掛けているのだから、そもそも時間的に見て全く釣り合っていない。というか調理しながら食器洗いをするのが基本だし、食後の食器洗いは氷山の一角に過ぎない。なんなら料理を代わりに作って欲しい)

④料理の献立を決定するのはめちゃくちゃ面倒だから「何が食べたい?」「何でもいい」という返答は辞めてくれ。自分ではなく他者のために作っているのだから、自分こそ何でもいいんだよ

⑤冷蔵庫の中身を常時把握しておく面倒さ。④と合わせて、朝から晩まで献立や冷蔵庫の中身ことを考えることになる

⑥上記のストレスの原因をすべて説明することの難しさ(正直①とか②とかは自分から口にするのが恥ずかしいし、③④⑤のストレスも、役割が固定化されている現状、構造的に解消することが出来ない悩みである)

等々。

これらが複合的に立ち上がり、「料理をする時のストレス」として心を圧迫する。上のように考えるのは自分だけかもしれないが、幼少期の母親のイライラを考えると、割と「料理をする人」にとっては共通の悩みなのではないかと考える。

これだけでもキツいのに、これに加えて先述の洗濯掃除ゴミ出しまで加わり、役割が固定されると発狂しない方が不思議である。現に自分は「家事をする時間があれば映画が一本は見れたのに……」とイライラが止まらなかった。なので途中からはiPad proを台所に置き、映画を見ながら料理をすることでストレスの軽減を狙った。実際に映画やアニメを見ながらやるのは(包丁を扱うため危険だが)時間を無駄にしているという感覚が薄まり、気分がよくなるために効果的である。映画がなければ俺は発狂していただろう。ありがとうiPad pro。

 

結論

以上、「他者のために家事をする(特に料理)」という役割の固定化は非常に精神的に良くないという経験談だった。もちろん、自分にとっての「本」や「映画」と同じ位置づけに「料理」や「家事」があるような人にとっては、役割の固定化は苦痛ではないだろうし、むしろ至福の時間になり得るだろう。そういう人がいるのであれば、どんどんやっちゃって良いと思う。実際に「自発的な」料理自体は楽しいし。

上に合わせて、これらのイライラは「他者のために」「役割が固定化(自発的ではないものに)」される際に得られる感覚がある。つまり「ようし、たまにはカレーを作っちゃうぞ!」という普段は料理をしないお父さんが「自発的に」動く時には感じられないことだろうし、自分のために料理をしている独身の社会人や学生にも理解しがたいものだと思う。

なので端的に換言するが、「自分の時間を他人のために使うことに対するストレスってヤバいよね」という身も蓋もない話に落ち着く。

「他人」に対して恋愛感情や家族愛があればまだ軽減されるかもしれないが、それはあくまで一時的なバフであり、恒常的にかつ完全にストレスを軽減できるかと言うとそうではないように思う。ここら辺は自分の想像にしか過ぎないが、バフ解除後は徐々にダメージが蓄積され、ある日突然噴火する原因にもなるのではないだろうか。

このように書くと、「仕事だってそうだろ!」「賃金を稼ぐ行為も役割の固定化だ!」という反論も当然あると思う。その発言には誠その通りだとは思うが、まだ同意しかねる。なぜなら自分は正社員として社会に出たことがなく、「賃金を稼ぐ役割の固定化」を体験したことがないからである。今回はこちらを経験談として話している以上、両方を経験しないことには議論は成立しない。

だらだらと長くなったが、最後にひとつだけ提案をさせてほしい。

誰でも一度だけでいいので、数週間くらい「固定化された役割」として「他者のために」料理をはじめとした家事全般を行ってみるのはどうだろうか。これをすることで、より明確に他者を意識する(何が食いたいのか、今はお腹が減っているのか、自発的に食器洗いはしてくれるのか、言われるまで通じ合えないのか、自分の存在や役割をどのように認識しているのかなどなど)ことになるし、同時に幼少期に家事をしてくれていた人への感謝、それを蔑ろにしていた自分の愚かさに辛くなると思う。多分。これはあながち暴論でもなくて、「飲食店で働くと店員に優しくなれる」理論と同じだと考えている。いずれにせよ、客観的な視点を手に入れることは、利益こそあっても損することはないだろう。

このあたりの問題は、様々な差別、社会問題と接続可能ではないだろうか。

【ネタバレ注意】エヴァあんまわからんけどシンエヴァの感想と考察

この記事はシンエヴァのネタバレ含みます。お気をつけください。

 (サムネイルネタバレ回避用の□を何個か置いておきます)

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ここまで置けば大丈夫でしょう。

というわけでシンエヴァ観ました。正直いろいろややこしい。疑問がないと言えば嘘になる。が、とりあえず現時点で分かっていることだけでも纏めたい。

というわけでこの記事では、宇部新川駅に注目し(なんで?)、シンジが何処に向かおうとしたのか、庵野監督は何を私たちに伝えたかったのかを考えたいと思う。

 

ループ説について

本作では最後に宇部新川駅が映された。「なんで宇部新川!?」というのはマジでわからないのだが(思い当たる仮説は後述)、とにかく最後には宇部新川にいるのである。で、ここらへんの路線図を見るとこんな感じである。真ん中下あたりに注目してほしい。

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山口県鉄道路線図( https://www.map-navi.com/line/11721.html より引用)

 もうこの時点でめちゃ露骨なのだが、宇部新川駅はそれ自体を構成要素として、「宇部」「小野田」「雀田」「宇部新川」というように環状線を形作っている。つまりループしているのだ。そんでもって、この環状線を構成する駅の数は、2線にまたがる「宇部」「宇部新川」「居能」「雀田」「小野田」駅をすべてダブらせて数えることでちょうど17駅となり、18の使徒である人間(リリン)を除けば、TVアニメ版の使徒の数と一致する(ここがちょっと強引かも?)。

また、このダブりを解消させれば、この環状構造を構成する駅の数自体は12駅となる。ここで、Qで述べられていたカヲルの第1使徒と第13使徒の兼任(シンエヴァでの第1と第13の狭間に存在するカヲル)を考えれば、これまた新劇における使徒の数と一致する。いずれもやや強引ではあるかもしれないが、この路線図でなければエヴァンゲリオンのループ世界を表現できなかった、という可能性については捨てきれない。

 

ちなみに、タイトル自体もループを示唆しているのは、今更すぎる指摘だろう。「:||」は楽譜において(ゲンドウやカヲルが弾くピアノとの関連)反復記号を示している。まあ、かなり露骨っすね。徹底的に「この世界はループ構造をとっているんだぞ!」と主張している。

 

ループと平行世界

続いて、ポスターにおける「3.0+1.0」と「thrice upon a time」について。ここらへんはいろんな人が言及しているので簡単に纏めよう。

まず、これまでに自分たちが観測した「映像作品でのエヴァンゲリオン」の物語には、TVシリーズ、旧劇、新劇(序破Q)の3つがある。そして本作のシンエヴァにて、新劇の結末と新たに始まる物語(+1)が描かれる。それを示すのが、ポスターにおける「3.0+1.0」だろう。多分。

もう片方だが、これは有名なSF小説ジェイムズPホーガン「未来からのホットライン」の原題らしいです。らしいというのは読んだことがないからです。すまんな。で、この小説ではSTEINS;GATEも元ネタにしたという平行宇宙を扱っているらしい。簡単に言えば、私たちが「現実」だと思っている世界とは別に、「無数のありえたかもしれない世界」が存在しているというニュアンスのものだ。これを踏まえると、これまでに描かれた3本の物語はすべて平行世界の話であると考えるのが妥当である。実際、TVシリーズと旧劇はちゃんと最後まで描かれているため、「あの終わり(旧劇)から次の物語(新劇)が繋がっている!」と考えるのは、ちょっと無理があると思う。素直に「TVシリーズ」「旧劇」「新劇」はそれぞれひとつの作品として完結していると考えるのが妥当だろう。

これについては、例の路線図が理解の助けになると思う(あくまでただの感覚だけど)。

シンジ(たち)は「宇部」「小野田」「雀田」「宇部新川」からなる環状線を、電車を乗り換えながら回っている。使徒の数と照らし合わせたように、この線路の一周はひとつの世界の始まりから終わりを示している……のかもしれない(根拠なし)。そういうわけで、この電車はぐるぐる回るたびに新たな作品世界を生み出すわけだが、そのとき固定・保存されているのは「循環する」という事実と「道のり」の長さだけである。一方で、各周回では必ず同じ電車(出来事の流れ)に乗れるとは保証されておらず、乗り降りする駅(使徒)も同じであるとは限らない。よって、循環するという結末は変わらずに、旅程という名の物語内容だけが(微妙に)変わっていく。これが「平行世界」という解釈に繋がるのである。

こうして考えると、マリの存在は「偶然乗り合わせた乗客」と考えることでしっくりくると思う。TVシリーズや旧劇の停車駅・時刻表では電車に乗れなかったマリが、新劇では(これまでと違いズレが発生し?)偶然タイミングが合い、シンジたちと乗り合わせることが出来た。それを示唆するのが、ラストにシンジとマリが駅のホームで出会うシーンである。ここに関しては、後にもう少し掘り下げよう。

 

ループ構造を生み出しているのは誰か

せっかくループの話になったので、そのループの観測者についても話を進めよう。この物語における「ループ」構造は、生命の書に名前が記載されているカヲル君によって生み出されている(観測されている)ということは周知の事実だろう。一方で、他の人のシンエヴァの感想を読んでいると、ゼーレやゲンドウもループに気づいているという記述があった、が、この辺りはちょっと自分では確認できなかった。そのため、今回は「作中のキャラにおいては」カヲル君のみがループを観測しているという前提で話を進める。違ったら申し訳ない。

さて、察しのいい人なら、上の「作中のキャラにおいては」というフレーズに引っかかったことだと思う。いや、作品の外側にループを観測している存在なんておるんかいという話だが、間違いなくいるはずである。そう、作品の鑑賞者(つまり画面の向こうの貴方)がそれである。「なんだ、しょうもないメタフィクションだな」と思うかもしれないが、自分はここにかなり重要な意義があると考えている。

というのも、そもそもループはどうして「ループ」だと判断されるのか、そこを考えなくてはならない。

「私たちの人生はループしているか」という問いに対し、信仰以外の「確実な」答えを持っている人はいないだろう(信仰を否定しているわけではない)。なぜなら自分たちの人生の構造そのものを観るためには、今いる段階よりも上の次元に立ち、俯瞰しなければならないからだ。これと同じことがシンジたちにも言える。シンジは自分の人生がループしているかを知る術を持たない。知る術を持たないうえに、このループから自発的に抜け出すことも出来ないのである。つまり、エヴァンゲリオンの世界は、カヲル君と私たち(鑑賞者)によってループしていると判断されるのだ。決してシンジたちがそれに気がつくことはできない。

 

エヴァンゲリオンにおける「現実」と「虚構」

しかしながら、作中のキャラが自身の世界を俯瞰できる唯一の方法があった。それが「ゴルゴダオブジェクト」である。これを使えば、エヴァ作品世界における「現実」と「虚構」を同時に認識できるようになるからだ。

作中でも触れられたが、少しややこしいので、シンエヴァの「現実」と「虚構」について解説する必要があるかもしれない。ここは面白い構造になっていて、そもそも虚構の作品であるエヴァンゲリオンシリーズにおいて、「現実」も虚構には違いない。しかしながら、「新劇のキャラたち」にとっては、新劇の世界は「現実」であり、逆に「TVシリーズ」や「旧劇」の世界は、「新劇ではない」という意味において「虚構」なのである。

よって、シンジとゲンドウが到達した「虚構」と「現実」が混在するマイナス宇宙では、「新劇」と「新劇以外の世界(TVシリーズ、旧劇)」の世界が混在することになり、それらを俯瞰できる立場に立つ。故に、出会ったアスカは旧劇の舞台に横たわり、シキナミシリーズ含めたすべての人格(記憶)を内包している(と考えられる)し、カヲル君とも同じ「観測者」の立場でループ構造について語ることが出来る。また、レイとの邂逅ではこれまでのシリーズ作品の映像が上映されることからも、シンジは「エヴァンゲリオン」という作品を眺める「私たち」と同じ次元の視点を獲得したことが明らかになる。

ただ、これだけではシンジは作品の「ループ」構造から逃れたとは言い切れない。そこから逃れるためには、「ループ」構造を観測している、カヲルと私たち(鑑賞者)の目を欺かねばならないのである。

 

ループとなる線路と電車

ここで、少し話を変えて「なぜシンジはループから抜け出さなければならないのか?」という前提について考えたい。これについては、エヴァにおける電車の扱いに注目するのが良い。例えば、これまでシンジが電車に乗っているシーンは、殆どがレイや自身と向き合い対話し、「何かについて答えが出せずに葛藤している」時ではなかったか。これはシンエヴァにおけるゲンドウの描写でも同じであり、ユイの名を呼びながら自身の半生を振り返り、シンジのなかに自分を見つけるシーンはすべて電車の中で行われる。一方で、その葛藤が終わり次第、ゲンドウは電車から降りることとなる。これらから、電車は「自己と葛藤する場」であると考えることが出来る。また、確証はないため付記するだけに留めるが、シンエヴァで大地がコア化し、「電車」が宙に浮いている第三村のシーンでは、ずっとシンジは失語症に任せ、思考を放棄している(電車が走らずに浮ついている)ように見える。

こうして見ると、電車は主にシンジにとって「自己と葛藤する場」であることから、別に降りなくても良いように見える。しかし、電車が走る線路は環状構造(ループ)となっていることから、シンジは永遠に同じことを悩み続けることになるのではないか。ゲンドウが電車から降りたことからも、自己と葛藤し「終える」ことは、「大人」となるために必要なアクションだと考えられる。この辺りについては、村で生きるために無理矢理身を固めたケンスケとトウジの姿を思い浮かべれば良い。彼らは14年の時を経て、「大人」になるために自己と葛藤し終え、自らの居場所を見つけ、自らの役割を探し、けじめをつけているのだ。ここにおいて、何度も葛藤の渦に嵌まっていた(TVシリーズ、旧劇、シンエヴァ以前の新劇)シンジが大人となるための鍵がある。前に進むためには、ループからの脱出(電車からの下車)が必要となるのである。

 

「虚構」から「現実」へ抜け出すシンジとカヲル

話を戻そう。シンジはどのようにループから抜け出せば(観測者を欺けば)良いのか、という話だった。

まずはカヲルが監視する動機から考えよう。もっとも、このあたりについては作中でしっかりと描写されている。カヲルはマイナス宇宙で、シンジを自らの手で「幸せ」にしようとし続けた結果、シンジにとっての幸せを誤解した、という旨の発言を行う。つまり、カヲルがシンジを観測し続ける動機は、シンジに「幸せ」を掴んで欲しかったという純粋な愛によるものである。ところが、カヲルはシンジにとっての「幸せ」が分からなくなり、シンジの観測を辞めなかった(ループをさせ続けた)ために、シンジは何度も葛藤し、「幸せ」を求め続けることになったのだ。

逆に考えれば、シンジが「これが幸せなんだ」と感じ、それをカヲルが理解することで初めてシンジに対する観測が終わると言える。実際にカヲルは、シンエヴァ本編のラストでようやく、シンジが虚構ではなく現実(彼が今いる新劇の世界)で立ち直った(電車から降りる準備が出来た)ことを悟り、ループを止めると決意する。簡単に言えば、この周でシンジは電車から降りる準備ができたと分かったので、電車を止めてあげようと決めたのである。

 

シンジが私たちの視線から抜け出すためのマリというキャラ

残るはエヴァの鑑賞者、つまり私たちの視線から逃れる方法だが、これがなかなか難しい。なぜなら、私たちはずっと作品としてシンジを見つめ続けているからである。これを感情移入とも言うが、鑑賞者は思い思いの感情を抱きながら、シンジに自らを重ねることになる。そしてこの時私たちが求めるのは、キャラクターとしてシンジが変化しないことである。

「ずっとウジウジして逃げていないとシンジじゃない」

「悩み続けて、優柔不断なところがシンジだと思う」

このような要請を受け、シンジは作品内で、自己と葛藤し、永遠に子供である「演技」をし続けなければならない。マイナス宇宙において撮影スタジオやジオラマなどが多く映されたのは、作品内のキャラクターが、虚構であり続けるために「演技」「撮影」をしなければならないからだ。どれもこれも、鑑賞者が感情移入するためである。鑑賞者が感情移入し続ける限り、シンジは子供の演技をし続けなければならないのだ。

そうではない、と言い切ることができるだろうか。現に私たちは、ラストの駅のベンチに座っていた、大人びたシンジの声に違和感を覚えはしなかったか。突然成長し、子供から大人になったシンジに、レイやカヲルやアスカではなく、ぽっと出のマリと仲良くしている様子に、多少なりとも「これじゃない感」を覚えなかったか。自分は強く感じた。そして、ここで鑑賞者に違和感を覚えさせることこそが、庵野が狙った「シンジが私たちの視線から抜け出すための唯一の方法」なのである。

つまり、私たちにとって「これじゃない感」溢れるシンジになることで、シンジは私たちの監視から抜け出すことができるのだ。なぜなら、今まで自分たちの頭のなかに存在していた、「うじうじしていたシンジ」とは全く異なるために、同一人物として認識することが難しくなるからである。私たちの頭のなかの「子供」のシンジと、作品内の「大人」のシンジをあえて分断させることで、「私たちのシンジ」から「演技を辞め、大人になったシンジ」への変化を、遠い視点から認めさせているのである。

極めつけが、マリの存在である。先述したとおり、マリとシンジの組み合わせは、これまで作品を追ってきた鑑賞者にとっては意外だったものではないだろうか。というのも、先ほど「ぽっと出」と表現したように、アスカやレイやカヲル君に比べて、シンジとマリのやりとりは殆どなかったからである。寧ろ、マリはユイのことを愛していたり(おそらく漫画情報)、アスカを大切に思っていたりするなど、同性愛の傾向が強い人間でもある。その割には、マリは新劇にて突然映像の作品世界に入り込み、やたらとシンジを助けに行こうと張り切っている。

ここで、冒頭で述べた「マリは偶然乗り合わせた乗客」という概念を持ち出したい。改めて、宇部新川駅の周辺路線図を見ていこう。

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山口県鉄道路線図( https://www.map-navi.com/line/11721.html より引用)

先ほどは触れなかったが、実は宇部新川駅の特長として、新山口に抜ける路線がある。この環状線(ループ)に至る線路と、新たな道を進む線路の構図は、劇場版のポスターにおいてメインで描かれているものだと分かるだろう。

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シンエヴァのポスター(公式ツイッターから引用)

さて、一見ポスターを眺めていると、宇部新川から新山口に進むまっすぐな線路を歩むことこそが、シンジの新たな物語(+1.0)のように見える。しかしながら、改めてラストシーンを確認すれば、シンジとマリは電車には乗らずに駅を飛び出し、外の世界に羽根を広げる終わり方だったことに気がつくはずである。

「あれ? このまっすぐな線路を通ることで、ループから抜け出すわけじゃないのか?」と自分ははじめ混乱したのだが、ここにおいて、マリの存在を思い出した。つまり、逆に考えればよいのである。ポスターに書かれたこの線路は、奥から手前に向かって進むわけではなく、マリ(手前)がシンジのもと(奥)に向かうための線路なのである。つまり、「シンジがループから抜け出すための宇部新川から新山口に抜ける線路」ではなく、「マリがシンジのもとに向かうための新山口から宇部新川に向かう線路」なのだ。こう考えることで、マリがパラシュートでシンジのもとに「外部から」降り立ったのも、マイナス宇宙で虚構になりつつあるシンジを救おうと「外から迎え」に来たのも、電車から降りたものの駅からは出ずにホームで待ち続けるシンジを「迎え」に来たのも、すべて同じ構図(外からシンジを迎えに来る)で描かれていたことがわかる。

そして、ここにおける「外」とは、虚構における「現実」という風に解釈することはできないだろうか。この解釈を支えるのが、マリとともにシンジが駅を出た途端に、背景が現実の映像になる演出である。何故、カヲル(?)やレイ(?)がいる駅のホームではアニメ作画なのに、マリとともに「駅の外」に出た瞬間に現実の作画となるのか。それはマリが「現実」を象徴し、シンジを私たちと同じ「現実の存在」へと昇華させるキャラだからではないか。

このようにして、シンジは私たちの監視(ループ、演技)から逃れ、本当の大人になるのである。

 

 

まとめ

ここらで考察を纏めよう。

自分の主張としては、宇部新川駅に着目することで、マリの存在意義、ポスターの意味、シンジが大人になるための手法についてより解釈を深めることができるのではないか(できたのではないか)という一種の提案だった。

というのも、シンエヴァを見た人の感想として、「俺たちも大人になれということなのか」「エヴァは本当に終わったんだなあ」「エヴァから卒業させられた」という意見が散見されるのだが、「私たち」ではなく「シンジたち」に目を向けてみるのも良いのではないかと考えてのことである。

個人的には、「私たちのエヴァからの卒業」よりも先立って「シンジたちのエヴァからの卒業」があると考えている。シンジにとってのエヴァとは「鑑賞者から子供の演技を要請されるもの」である。だからこそ、最後の「終劇」の二文字には、シンジが「子供」を演じた舞台の終幕という意味が込められているように思えてならない。ただ、間違えてはならないのが、エヴァがあった世界(つまりシンジが子供であり続けた世界)は消えるわけではなく、平行世界のように心の中にあり続けるのだ。

それを示すかのように、虚構としての子供の思い出は「3.0」として、現実としての大人の「1.0」として分けられ、「4.0」でも「1.0」でもなく、「3.0+1.0」として独立し保存されている。

以上から、自分は「俺たちに大人になれということなのか!」という悲観的なメッセージを受け取らなかった。それはシンジが大人に成長し、私たち鑑賞者が感情移入できなかったことによる寂寥感であって、映像から得られるメッセージではないと考えている。

いつ嵌まったかに関わらず、「子供」として無邪気にエヴァを好きになった気持ちを大切にしながら、「大人」の第一歩を歩んでほしい。

それこそが、今もなお特撮を愛し続ける庵野監督の精一杯のメッセージではないだろうか。

 

以上。庵野監督と制作スタッフに最大級の敬意を。

松浦理英子「ナチュラル・ウーマン」読んだ!

ガチで大好きノベルになっちゃった。本当に攻撃力が高い。自分は攻撃力が高い本と相対すると酒と煙草で防御値にバフをかけないと絶叫して死ぬタイプの人間なので、手元に煙草と酒があって本当に助かった。自分は煙草を常飲しないのだけれど、こういう数ヶ月に一度出会えるレベルの書物、居酒屋のためにこっそり煙草を忍ばせている。つまり数ヶ月に一度の頻度で煙草を吸う。僕と同じタイプの人間は絶対に近くに酒と煙草をおいていた方が良いです。

本作は3作による短編集?になっている。?をつけたのはどの物語も登場人物が同じで、物語として連続しているように感じるからだ。一方でいずれも原稿の掲載時期が異なることから、一応話としては独立して読むようになっているのだろう。

しかしながら、この作品は前から順に読むことで傑作になるのだという感覚を譲ることはできない。他の順序はダメで、この順序でなくてはダメなのだ。正直、表題作だけではただの「持っている」サブカル女の恋愛事情という感じで、容子の苦悩を推し量るのには十分でないように思う。

というのも、自分がこの作品に良さを感じるのは作品構造に寄るところが大きい。第一作「いちばん長い午後」で今まで手にしていたものの殆どを失い、ハートのエースだった由梨子との関係を悪化させ、花世との関係も悪化させ、自らの愛の在処をはっきりさせないがために泥沼のように沈んで何処にも行けなくなる容子の苦しさを提示してから、その過去(だと自分は思っている)「微熱休暇」でハートのエースである由梨子との希望に満ちた旅行、最後の「ナチュラル・ウーマン」で花世との活き活きとした青春の思い出を語る。これにより、一層「現在(いちばん長い午後)」の悲壮感が強調されるという読み方をしたからだ。つまり、もし現在が微熱休暇なら*1この作品に対する自分の感情はまったく別のものになる。話が明るいからだ。

つまり、自分はこの作品に通底する「受け身の人間の苦悩」に惹かれたことになる。ここら辺は「最愛の子ども」の感想(松浦理英子「最愛の子ども」読んだ! - 新薬史観

でも触れているのだが、両作品ともに極度に受け身な人間が描かれており、それが本作では主人公の容子ということになる。松浦理英子は、この「受け身」を性別と関連づけているように思う。例えば本作品では、容子は性別がないかのような描写をされており、その最たる比喩が以下のものである。

「あの子に言わせると、私はどこからどう見ても女だけれど、容子にはいわゆる女らしさがない。もちろん男のようでもない。一般的な性別には属さない、と言うの。では何に見えるかと言えば、夕暮れに家に帰りそこねた子供に見える。属すべき性別を見つけることができなくて戸惑ってる雰囲気があるんだって。」
「それはいいけど、なぜ小僧なの?」
「家に帰りそこねても生きて行けるしたたかさがあるのは小僧に決まっているからよ。ただの子供じゃ飢えるか凍えるかして死んでしまうわ。」

 この「小僧」というワードは、「最愛の子ども」で「王子」という言葉になって帰ってくる(ような気がする)。ここで注目すべきものが、子供と小僧の差異の「生きて行けるしたたかさ」だろう。そしてこれこそが、容子の持つ「受け身」な態度、また作品中で花世が口にする「触ってくれと全身で訴えていた」容子の性質そのものである。かなり今風に、かつひどい比喩を用いるならば、これはなろう小説における最強スキル「愛され体質 Lv.99」ということになる。これは容子自身も覚えがあり、またなんか私やっちゃいましたかと言わんばかりに、何故か私は他人に触って欲しいと願って拒まれたことはないと語る。このスキルに容子は自覚的なのだ。

 一方で、なぜそのようなことになっているのか容子は理解できていない。魅力を持っていることは把握しているのだが、その魅力が自分では一切分からないために、自分が相手からどのように観られ、どのような部分が愛されているのかが全く分からないのである。というより、さらに話を押し進めれば、容子は自分のことを何一つ分かっていないレベルで無知である。あるいはドストエフスキーから引っ張ってきて「白痴」とでもいうべきか。容子はムイシュキン公爵のように純粋で嘘をつかず、相手の善意をひたすらに信じている。それでいて先述の愛され体質によって人を自らに引きずり込み、ムイシュキンがナスターシャに対して憐憫の愛を向けた(かのように感じる)視線を、花世や夕記子に向けるのだ。ここら辺が花世と夕記子の苦悩となる。

以下は夕記子からみた容子の姿。

「こんな時にあなたは自分がダミー人形にでもなったつもりでいるんでしょう。でも、違うのよ。あなたは想像したこともないでしょうけど、私の方こそ電動人形にでもなった気分になるのよ」

(中略)

「ご覧なさいよ。皇帝に仕える家来みたいな図じゃない。言っとくけど、あなたの方が皇帝よ。」

(中略)

あなたは誘いかけるのがうまいのよ。可愛いから人を惹きつけるし、あなた相手に暴君を気取ってみたくもなるわよ。ところが罠なのね。しばらくたつと、実は自分があなたに踊らされていることに気づいて慄然とするの。あなたは忠臣を演ずる哀れな皇帝陛下なのよ。すべては自分の気紛れに始まっているということを呑み込んでいるから何をされても平気なのよ。ご立派ですこと。」

 

 続いては花世から観た容子の姿。

「何だか、いつもあなた一人がいろいろなことをわかっていたみたい。私は何も知らなくて。」

 花世は少し驚いた風に私を見た。

「それは逆でしょう? 私はあなたが怖かったくらいよ。あなたは空を飛びかねないほど自由で、私は愚鈍に地べたを這いずり回っていて。」

 

二人の意見はおおよそ似通っており、どちらも容子を見上げ、自分が下であると自覚している。それでいて、自分のすべてを容子に知られている、握られていることに恐怖を感じてしまうのだ。

これに付け加え、「ナチュラル・ウーマン」という概念を持ち込みたい。花世が容子と出会い、初めて自分が「女」(ナチュラルウーマン)であると自覚することが出来たのに対し、容子は未だに自分が「女」なのかわからないし、考えたこともないのである。このあたりは容子が無知であることの証拠となるが、この辺りの設定は「そもそも自分が何者かを考えなくてもよい性格」というところにも繋がる。

 この性格は「最愛の子ども」で真汐が冒頭に書いた作文でも表現されることになるが、真汐は「女子高生」というレッテルを貼られることに強い忌避感を覚える。これはひっくり返せば「自分が何者であるかを知っている」あるいは「分からないけれど誰かにレッテルを貼り付けられるのは嫌だ」から反発するのである。真汐は人付き合いが苦手なタイプということもあり完全に後者だと思われるが、容子は特別尖っているわけでもなく、むしろ愛され体質であることから前者であるように(周りの人間からは)見える。これが非常に重要な概念だと考えている。

 というのも、自分のなかでの解釈として、「最愛の子ども」「ナチュラル・ウーマン」両作品の登場人物が求めていた問いとして「自分は何者なのか」というものがあり、「最愛の子ども」ではその問いに「疑似家族(性行為のない性的関係)」で答え、「ナチュラル・ウーマン」では性行為で答えているのかなと考えている(疑似家族の件はすでに感想を書いているので割愛)。

つまり、「ナチュラル・ウーマン」に出てくる主要人物はみな「自分(ナチュラルウーマン)とは何か」という問いをしっかりと持っており、それを求めるために性行為を行っているのではないだろうか。ゆえに、自分が何者かを既に知っていそうな容子(皇帝、自由、上の立場など)に、「自分は何者でしょうか」と教えてもらう上下関係の構図ができあがっており、それが「愛され体質」によって覆い隠されているのである。しかしながら、容子は答えを知っているわけではなく、ただ自分が何者であるかに一切興味がないだけの人間であり、その欲求の無さが更新されない限りは、容子が相手に「自分は何者でしょうか」と聞くことはない。よって、見かけは「私を精一杯触ってください、可愛がってください!」と下手に出ているはずの容子は、性行為の本質である「自分は何者か」を教え合う行為において常に上位なのだ。それでいて、そのギャップは堅固であり、逆転する可能性がない(何度試みても容子は花世に対し受けにしかなれなかったた)。よって、その見かけとのギャップ(これを夕記子は「罠」と表現した)に気づき、それが自分たちにはどうしようも動かせないと気づいた時に人は愕然とし、容子から離れてしまうのである。

 唯一「微熱休暇」では性行為を行わないことで、由梨子との関係が保たれている。これは容子が相手と健全な関係を持つための最終防衛ラインであり、この一線を越えると、夕記子や花世のようになるのは目に見えている。なぜなら男との恋愛がうまく行けないけれど、レズビアンというわけでもない由梨子もまた、自分が何者であるかを知りたがっているからであり、それを知っていそうな容子と性行為をしたがっているからである。本作では性行為に至らなかったことを前向きに由梨子が捉えている点で明るい終わりに見えるし、容子自身、今まで試みたことがなかった「女」を演じていることに満足感を覚える(そもそもこれまでの容子なら、演じること自体をしなかったはずである)など、「自分が何者か」という欲求に動きがあるように感じられる。つまり、これまで夕記子と花世が抱き絶望したギャップを、由梨子こそ抱かずに済む可能性があり、ここに容子が抜け出せる活路があるように感じられるのだ。

故に「ナチュラル・ウーマン」における時系列は非常に大事だし、その捉え方によって、容子が今後どのような人生を歩むのかが想像できる。個人的には「いちばん長い午後」の退廃的な空気が大好きで、「微熱休暇」から感じる夏と希望の香りを味わいながら、「ああ、でも由梨子の電話に出なかったから、この二人の活路って断たれたんじゃないかなあ」と考えるのも苦しくて好きだし、「ナチュラル・ウーマン」でただひたすらに花世が好きな容子の感情とそれを表現する豊かな文章、肉肉しい性行為や暴力表現を過去のものと認識し、「いちばん長い午後」で容子が零した「今でも好きよ」の無意味さに涙を流すのも最高だと思う。

この物語は、少しでも容子に感情移入できる人間、つまり恋愛や自分のことにそれほど興味がない人間が「もし誰かを好きになったら」というifストーリーとして読むのが一番刺さるのではないか。自分は恋愛を知らない容子のような人間なので、もうボロボロになりました。ひたすらに苦しかったです。元気になりたい人は「微熱休暇」を最新の物語に据えればいいと思います。よろしければ是非。

 

 

*1:この前後関係の把握が難しい。どちらも容子は25歳である点でそれほど時系列としては離れていないのだ。おそらく微熱休暇は容子がバイトをしていた時代の話、いちばん~はバイトを辞めて三ヶ月後の話だと思っているため、この時間把握でいいとは思うのだが怪しい

松浦理英子「最愛の子ども」読んだ!

  本当に素晴らしい作品だと思う。以下、感想というか考察というかなんというか。

 

 日夏と真汐と空穂という同じ歳の女子高生が家族を構成するという奇妙な設定で非常に面白かったが、さらに本作の面白さを高めているものに、その疑似家族の関係性を内部と外部の曖昧な立場から解釈しようとする「わたしたち」という集合体の存在がある。読者はこの疑似家族の関係性を考える際、「わたしたち」の妄想を頼ることになる。

 これはある物事を知る際にまとめサイトを観ているようなものなのだが、その文章のスタイルは最初から最後まで変わらず、また内部(わたしたちは疑似家族と同じ世界に生きているキャラクターであり、交流も持っている)と外部(妄想)をシームレスに繋いでおり、あえてその境界性を定めていないように感じる。それでいて「わたし」ではなく、幾多の疑似家族を取り囲む女子生徒によって構成される不定形の「わたしたち」視点による描写は、何故か「わたし」よりも信頼性があるように錯覚する。というより、固定された視点ではないため、前述の内部と外部の境界の無さも助けて、本作の文章は、疑似家族を取り囲む電子雲のように曖昧で、不思議と純粋にすら思えるのだ。

 ここで考えたいのは、何故そのような視点を選んだのかということだ。俗に言う神様視点(三人称視点)でこの作品を表現し直しても、作品内容を表現することは可能である。むしろ日夏と真汐と空穂の関係性をより「正確」に描写でき、関係を精密に表現できるように感じる。しかし本作はそうしなかった。つまり本作の重要な点は何も疑似家族の関係性だけでなく、「何者でもない」部分、また疑似家族を大気のように取り囲むことで、最近流行の「推しカプを見つめる壁になりたい」「何も干渉しない植物になりたい」という部分にもあるのだと考えられる。

 つまり本作は疑似家族それ自体の問題提起というわけではなく、どちらかと言えば「疑似家族」という役割を外部からあてる事実や、「わたしたち」が意味するところ、つまり「わたしたちは小さな世界に閉じ込められて粘つく培養液で絡め合わされたまだ何ものでもない生きものの集合体を語るために「わたしたち」という主語を選んでいる。」と自らの限界を設定し安心している事実を克明に描いているように感じる。より簡単に言えば「お前は何者か」ということを全体の総意により決定している人たちの物語ということになるだろうか。

 というのも、実は個人的にはこの物語の主題は「わたしたち」にすらあるんじゃないかと思っていて、特に一貫して「わたしたち」はいまだ何者でもないという呪縛を互いに掛け合うことで、自分たちをこの場から何処にもいけないように縛り付けているような気さえするし(わたしたちの語りについては、わたしたちは妄想を織り交ぜないはずである)、一方で疑似家族にわたしたちが捨てた(諦めた)「自由」や「恋愛」などを仮託しているだけの惨めな存在にも見えてくる。

 この物語は疑似家族への妄想、あるいは個人の内面までもを妄想で描写することに自覚的であり、フィクションであることを全面的に押し出している。個人的には、その創作に誠実な姿勢を示せば示すほど、まるで自分が二次創作(決して一次創作ではない)をしている姿を上から覗き込むような錯覚に陥り、だんだん陰鬱な気分になってしまった。というのも、結局妄想は妄想であり、現実の人間を「正確」に描きだすことなど不可能だからである。

 ここをしっかりと提示しているのがラストの日夏のダンスのステップが「道なき道を踏みにじり行くステップ」であることが判明するシーンだろう。ここは非常に印象深く、読者である自分もわたしたちと同じように「なるほどね」と頷いてしまう。それと同時に、このステップの名を言い当てること(正確に想像すること)が出来なかったところで、わたしたちの妄想の限界(至高の二次創作と言ってもいいかもしれない)が簡単に打ち破られてしまったかのような虚脱感を覚えた。これにより、日夏をより遠くの人間であるかのように感じるから面白い。文体によってここまでうまい人間の表現が出来るようになるのだと感動した。

 で、まあ文体の話はここまでにして、後はわたしたちの妄想と現実によって気付かれた真汐と空穂についても考えたい。真汐はママという肩書きを押しつけられながらも、本来そういうものから尤も遠そうな人物に感じる。作中から要素を纏めると、意固地で可愛げがなくていろんな人と衝突する誰からも羨ましがられない性格であり、すこやかな性欲もなく、誰も愛せないのが真汐この人である。この一部は文庫版での帯文にもなっており、そもそも作品の始まりが真汐の文章で始まるなど、文体によるわたしたちの靄さえ取り払えば、作中では真汐に主眼が置かれているように思う。

 さて、物語では真汐を除いた日夏と空穂による関係性が掘り下げられることになるが、これが本当にうまい。ここでママと王子ではなく、パパと王子を選ぶのが良かった(真汐の正確を考えるとそうならざるを得ないのだが)。ここには二つの理由がある。

 まず①「近親相姦・同性愛」から立ち上がり二人の愛を語ることによって、背理法のようにその誤り(世間一般における家族、性別の否定)を指摘しているように感じるからだ。この辺りは村田沙耶香も解説で述べているが、このような操作が随所に見られ、読者は純粋な(性行為や恋愛、上下関係無しに生まれる)「家族」という共同体に触れることができる。一番好きなのは、本当の家族から離れた三人が、それぞれまるで本当の家族といるかのように肉体が反応する描写(これはわたしたちの妄想なのだが)であり、これを観る度に心が締め付けられる気持ちになった。ここには家族と「正常な」関係を結べない苛立ちなどはなく、「疑似家族」という家族が既に存在している安心感だけがある。自分はとにかく子どもに安心感を持って欲しいと願っている部分があるため、それが子どもだけで得られているこの光景に心が動かされないはずがなかった。めちゃくちゃ好きなシーンだ。

 次に、「日夏のように自分を面白がる人は二度と現れないが、日夏が可愛がる人は今後も現れる」という部分である。これと合わせて空穂の「誰からも可愛がられる、ひどく受動的である」という描写を観たい。ここでは同著者による「ナチュラル・ウーマン」で表現されていた容子の姿が女子高生になって現れたかのように、空穂は性欲や人間関係において受け身になる人物として設定されている。そして松浦理英子の考えとして、まるで自我がなくひどく受け身な人間は誰からも愛されるのである。ここらへんは「最愛の子ども」と「ナチュラル・ウーマン」で相補的に受け身の人物がどのように思われるのかを理解するのに役立つ。真汐は「すこやかな性欲もなく、誰も愛せない」という点で花世であり、夕記子であり、由梨子である。それでいて彼女たちがみな容子に惹かれたように、(日夏にとっても)真汐にとっても、空穂は触りたくなってしまうのだ。この「触りたくなる」という感情こそが、自分は松浦理英子の考える(と言ってもまだ2作しか読んでいないが)「愛せない者の愛」だと思っていて、これが本作では疑似家族の蝶番になっているのだと思う。

 というのも、日夏と真汐だけではここまで関係が続かなかったと考えるからだ。それはすべて真汐の「すこやかな性欲」がない部分に起因し、まったく愛せない人をどのように愛せるのか、という苦悩に繋がる。それを救うのが「愛せない者にも愛」を与える空穂のような受け身の人間であり、日夏と真汐による空穂への愛という共通項が親という属性になり、疑似家族の構造に繋がるのである。ゆえに物語の最後はこのように締めくくられる。

 

「わたしたちはいつか最愛の子どもに会いに行く。」

 

 誰も愛せない真汐にとって、唯一「愛せた子ども」である空穂は、日夏同様、真汐にとってかけがえのない存在なのだ。自分はこの一文が、真汐のすべてを凝縮しているように思えて本当に泣いてしまった。恐ろしい人間描写の圧縮率であり、さらにここに青春という未来への希望と過去への羨望を併せ持った概念が文体に練り込まれている。あまりに美しい文章だと思う。

 

以上。あまりに美しい作品で、もう完全に宝物になってしまった。皆さんにも強くオススメします。近いうちに「ナチュラル・ウーマン」についても書く。

 

ウェス・アンダーソン「天才マックスの世界」「ダージリン急行」観た!

ウェス・アンダーソン天才マックスの世界」(1998)

これめっちゃ良かったです。すべてが自分には生み出せない設定とストーリーラインで刺激しかなかった。マルチタレントを持つ(というか手を出してる?)ゆえにどうしても浮いてしまう(というより学生離れしている)マックスと、家族や会社などから孤独感を覚えるハーマンとの間の厚い友情物語――かと思いきゃ、そこから物語は急展開を見せる。クロス先生という共通の思い人が現れてからは、二人の関係は急激に悪化し、予想もできないような悪事を互いに働くようになる。倫理のたがを簡単に外すのはウェスアンダーソンの得意技というか、「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」とか「グランド・ブダペスト・ホテル」とかでも、大人しそうな雰囲気の人が唐突にビビる行動を見せてくるので非常に魅力的で面白い。自分のなかで勝手に登場人物に抱いていた幻想をあざ笑うかのようにぶち壊してくる手腕は流石である。自分に足りないのはこれだという気さえしてくる。推しカプにこれをさせたい!(宗教上の理由で不可)

この作品のすごいところは、どう考えても修復不可能だろうという状況にまで三人を陥らせてから、不器用ながらも徐々に再生していくところだ。先述のテネンバウムズはまさにここらへんを主題にしていたが、こちらの方がコメディで楽しく見ることができるし、落とし所も非常にすっきりしていて笑える。なんというか、本当に元気になりたい時に観たら良い映画ですね。マックスが大真面目に背伸びしているところの共感性羞恥にさえ堪えることが出来れば(「ムーンライズ・キングダム」よりちょいとキツいが、そこを乗り越えた人ならイケる)最高の作品になること間違いなしである。やっぱウェスアンダーソン好き。傑作。

 

ウェス・アンダーソンダージリン急行」(2007)

これもかなり面白い映画でしたし、なによりも本当に綺麗。上の感想でも書いたけれど、観客が予想もつかないところにこの作品は行き着く。そのコース取りがこの作品の場合顕著であり、正直シナリオとして纏まりがなく、脚本だけ追えば「なんなんだこれは」という気もしなくはない。例えば、タイトルがダージリン急行なのに中盤で三人兄弟はダージリン急行から降ろされることになる。以降一切ダージリン急行に乗ることがないので、「おいおいじゃあなんなんだそのタイトルは」と笑ってしまう。実際になんなのだろうかと考えると、仲の悪い三人がなんとか集まったきっかけ(また父の死と母との音信不通を重みに感じている三人の象徴)でしかないわけで、それ以上でもそれ以下でもない。自分はできれば作品全体に通貫するテーマをタイトルにしてほしい派なので、この作品なら「The Darjeeling Limited」じゃなく「The Train Trip for Three」とか韻踏んでるし良くないか?と思ったが、ダサすぎて鬱になった。「The Darjeeling Limited」の方がどう考えてもお洒落で綺麗で邦訳しやすい。自分にタイトルセンスはないようだ。

それはともかくとして、この物語は前の通り非常に行き当たりばったりで、仲が悪い三人にぴったりのシナリオとなっている。互いに探り合い本音を隠し続けながら、なんとか味方を作ろうとするのだが、誰もが誰もを信頼しないため、結局みんなが敵になる。このあたりの不器用さ、探り合いが面白く、テンポのいい会話と気持ちのいいカメラワークも最高だ。窮屈そうな車内もいいし、かったるい感じがたまらなくいい。この環境は最悪で、誰もがここから抜け出したいのだけれど、どうしようもできない苛立ちもうまく表現されている。さて、三人の関係が激化し、電車から追い出されるところでいったん最低の状況になるが、本作はここからの持ち上げが非常にゆっくりだ。そしてこの辺りから、映像が一段と綺麗になり、村の子どもの葬式から父親の葬式の回想へと繋がる最高のムーブを見せることになる。ここが本当にすごい。終盤にしてようやく回想をするんだということも驚きなのだが、ここにきて回想を入れるという判断が恐ろしい。自分なら喧嘩直後、電車から降ろされる直前に挿入すると思うし、そこがシナリオ的には一番落ち着くところだと思うのだが(結局その回想は現在に影響を与えず、三人の過去を示すものでしかないため)、映像の美しさを重視してここら辺に置いたのかなと考えた。知らんけど。最後にこの映画は、びっくりするくらいのタイミングで「オー・シャンゼリゼ」が挿入され、そこらへんはもう作品が美しくて頭がくらくらする。構造としても良いし、映像もバッチリだし、三人がすべての荷物を捨て去り軽々しい気持ちと、俺たちどこに行くんだろうなあとでも言うようなのんびりした曲調が実に合っている。本当に感動してしまった。自分はこういうものに弱いんだ。傑作です。

平田オリザ「東京ノート」「ソウル市民」「ソウル市民1919」観た!

代表作らしいので観た。この前観た作品よりかは良かった。

以下、簡単な感想。

 

東京ノート

これが今までに観た平田オリザ作品のなかで一番好きだな。美術館を舞台にした作品だが、美術館のロビー?という本来静かにしなければならない場所から唯一逃れている場所で行われている会話から、「ここだけの話(本音)を語る」というイメージを感じ取った。文化背景もよくて、芸術を解するものと解さないもの、政治に向き合うものと向き合わないもの、共同体に属する者と属さない者など、綺麗に思想が別れているものが現れては消え、舞台の上の空間を非常に好ましく感じたし、もっと観ていたいという気にさせてくれた。静かな空間ではあるのだが、魂の衝突とでも言うべきダイナミックな動きが見えるのだ。それが面白い。

個人的にイチオシなのが、長女と長男の嫁との間で行われるやりとりだ。長女は「家族のために自己を犠牲にしてきた者」として、長男の嫁は「いるべきではない場所にいる者」として、互いに惹かれ合い踏み込んでいく。この二人の演技がとても良くて、行動や言動の節々から、長女は自我を捨てまるでお婆ちゃんにでもなったかのようなお節介さ、長男の嫁はすべてに疲れ切り途方にくれた感情がにじみ出ていたのだ。この二人が最後に慰め合い、嫁が長女に「画を描いてくださいよ、私の」と語る箇所は、今後失われるはずの家族としての関係性(自分が欲しいもの)と長女がとうの昔に失った小さい頃にやりたかったこと(長女が欲しいもの)を同時に叶える最高の台詞である。どうしようもできない(田舎での家族としての役割や嫁として仕えてきたやるせなさ)ものに対し、手を繋ぎともに進もうとする二人の関係性、これを「百合」と言わずして何と言おうか。最後の最後に自分好みの関係性がぶち込まれて流石に声が出てしまった。平田オリザ、書けるじゃん百合。こういうので良いんだよこういうので。

まあ冗談はともかく(そこまで冗談でもないが)、上記の理由から平田オリザ作品で一番好きなのは東京ノートですね。

 

「ソウル市民」

これは非常に面白い作品だと感じた。政治的な主張がしっかりとあり、個人的には好きな作品だが、特定の団体の目に触れると燃料となるような力強さを持っているためにハラハラする。韓国ウケが良かったというのも当然のことで、向こうからしたら「日本が自分の罪深さを反省していて素晴らしい」という当然の評価になるだろう。この作品では「差別を行っているのは国や権力者ではなく、それに無自覚な大衆である」というなかなかに鋭い視点を導入している。平田オリザはこれで「日本演劇史に残る」と確信したらしいが、こればかりは納得だ。作品として完成度も高く、非常にうまく日本人の自惚れを描けているなと感じた。「南へ」でもそうだが、平田オリザは権力者に何か恨みでもあるのだろうか。愚かさの表現が非常にうまいように感じる。

と、ここまで褒めたものの、話の流れ自体はそこまで面白いものではなかった。というのも、平田オリザの作品はどれも日常の切り取りでしかなく、始まりも終わりにも「作品らしさ(諏訪哲史はこれを「作為」と呼んでいたが)」が一切ない。自分は想像以上にそれに支配されているらしく、「作為」がないだけでちょっと作品の評価が変わってしまう。というか、脚本に面白さを求めてしまう。そういう観点では、この「ソウル市民」は演技や台詞、作品としての意味は非常に面白いのだが、肝心の脚本が自分好みではない、という話になる。not for meとでも言って感想を終える。

 

「ソウル市民1919」

これに関しては、「ソウル市民」の方が面白かった。歌を何度も挿入し、非常に明るい作品に仕上がっているのは事実だ。三・一独立運動の深刻さと日本人の現状認識能力の欠如による呑気さを対比させることで、日本人の愚かさPart2を描きたかったのも分かる。そういう点では、この作品はよくできあがっていると思う。しかしながら、先述の通り脚本が面白くない。どこまで言っても日常の切り取りでしかなく、魅力的に人が動くことはない。最後のあたりはみながドタバタしており、観ていて心が落ち着かない。やはり自分はどうしても脚本の作為が欲しいらしい。よって本作もnot for meである。好きな人は好きだろうし、面白さがわからない人間も半数くらいはいるタイプの作品だと思った。

 

以上、ひとまず平田オリザの作品に触れるのは(「転校生」だけは戯曲として読んだので後で感想を書く)これくらいにしておきたい。また気が向いたら触れてみようと思います。

toi「四色の色鉛筆があれば」ままごと「あゆみ」(長編)観た!

「わが星」の柴幸男の作・演出作品ということで知り合いにDVDを貸してもらい(実は貸してもらったのは数年前の何かしらの同人イベントでのことだった。放置しててすみませんでした)、いまさら視聴した。

 

四色の色鉛筆があれば

「過去と未来を材料に新しい現在を発明する四つの視点」「どんな複雑な世界も、四本の短編で描き出すことが出来る」というのがテーマの本公演らしいなので、できる限りそこを頭に入れて観劇した。

収録作

①あゆみ(短編)

これが一番好きだった。演出としてただ歩き続けるだけというのが斬新でビビったのと、ダッシュで時系列の変化を意味するのが面白かった。作品で示される「直進すると月に行ける」「月への距離」などは、第三作目の「あゆみ(長編)」で大きく変更される点であり、長編では「月への距離」ではなく「一生に人が歩く距離」になっている。この違いは端的に言ってあゆみが示す意味だろう。短編ではあゆみ自体でなく、歩んだ先にある月(家出や迷子、あゆみが「現在」いる場所などと関連)を示し、長編では歩むことそれ自体を示している。ただテーマとしては一貫しているように感じる。というのも上記で述べたように、月は家出して目指す場所であり、現在の自分を見失ってたどり着く場であり、また人生の一貫した流れから外れた(傘を差して横から現れるあゆみがいた)場所であるという意味から、月は人生においてあり得たかもしれないもうひとつの人生であり、また生まれる前や死後の世界(明言されていないが、あゆみは桶に両足を突っ込んで死んだような匂わせがある)を示しているように感じる(要するに過去現在未来という時間の流れから外れた場である)。そのような場所に立ち、現在の自分の歩んできた人生を見つめ直す、現在を肯定するという構造は、長編の「あゆみ」と変わっていない。ここらへんのテーマはつい先日観た(同じ人から進められた)「ミスター・ノーバディ」と同様のものであり、自分自身が内包されるがゆえに非常に不安定な解釈になる「現在」(ゲーデル不完全性定理的な感じ)を、外部の視点から観ることが出来れば(自分が存在する場を評価する立場を手に入れることが出来れば)肯定することが出来るよね、という感じのものだと解釈した。また柴幸男独特の演出なのかもしれないが、ありえたかもしれない無数の世界線、あるいは反復を示すために(多分)、複数の役者で声を重ねたり、何度も同じ台詞を効果的に繰り返すところが大好きだなと思った。何よりも、これだけの感動とメッセージ性をたった数十分に詰め込んでいる点が素晴らしい。作品として非常に美しいと感じた。

 

②ハイパーリンくん

「わが星」の前身というべき作品。役者がぴったりと声を揃えたり、あえてワンフレーズごとにずらして(譲って?)原理を述べたり、リズムに乗って円周率を言い続けるあたりはかなり柴幸男の性癖(かつ自分にとっても気持ちいいところ)が出ていそうだと思った。あと「わが星」でも思ったけれど、丁寧語で優しい口調なのに、こちらをすべて見透かしているかのような恐ろしさを纏った先生の言葉遣いが非常に好きだ。

この作品は、言語のリズムと身体性、科学の融合を狙い、非常に綺麗に纏まっているとは思うが、距離のあたりでやや間延びを感じてしまった。もはや何を見れば良いのか分からず、孤独すら感じた。宇宙の孤独感を演出するうえでは非常に良かったが、作品としてのテンポとのバランスが難しいなあと思った。またこの作品は未来ではなく過去を徹底的に洗い出すことで、自分たちが「現在」どのような場所(科学史的にも空間的にも)にいるのかを示している。結局正確なことは「わかりません」ということにはなるのだが、少なくともこれまでに分かってきたことは後生に少しずつ伝えられるわけで、そうしてひとりの生(リンくんは嘘をついていない)を肯定することになる。つまりここでは「過去は現在、あるいは未来を肯定しうるものである」という概念を挙げているように感じた。

 

③純粋記憶再生装置

やや面白みに欠ける作品だった。男女2組のペアを用意しておいて、空想上の男女を性別を一切無視し代わる代わる演じるところは面白いと感じたが、本作で顕著に目立っただけで、柴幸男作品に通底する演出なので特筆すべきことではないかなと。本作は「現在から構成した歪んだ過去」を「純粋に保持された記憶の再生」によって少しづつ矯正していく話なのだが、いまいち自分には刺さらなかった。矯正していくと言っても、歪んだ過去が完全に正しいもの(楽しかった過去)と同じになったとは思えない。過去は過去であり、決して現在を変える力は有していない、そんな「過去の弱さ」を表現しているように感じた。

 

④反復かつ連続

これは非常に技巧的で面白かった。たったひとりの舞台であるが、演じる対象はすべて同じ家庭にいる女性であり、年齢が上がっていく(未来から過去に遡っていく)かたちになっている。表現しているのはある家庭のある日の朝に違いないのだが、何気ない朝の描写が非常に綿密な人の動きによって構成されているのだと気付かせてくれた点に、この作品の強みがある。ズームインのOPの立ち上がりも(ちょっとわかりにくかったが)この作品にはなくてはならないもので、単調になりがちな反復のアクセントにもなっている箇所であり、非常にうまい挿入だなと感じた。先述だが、この作品は未来から過去に遡りつつ、その時間が連続していることを表現している。また、何女か忘れたが、この地で生きる(就職だっけ?)発言をしたように、この家庭が反復されることも示唆される。つまり、まるで伸びる爪のように(?)この空間には何層にもわたって未来(爪半月、爪の白い部分)が堆積している。それがまた成長すると、伸びた爪は切られ、新たな爪半月が生まれる。その外観(現在)はいつ見ても同じように見えるものの、「新たな現在」であることには変わりはない。端的に言えば「時間の連続性」をこの作品は表現しているのだと思う。

 

以上、この作品は4作品纏めて非常に面白いテーマを取り扱っていた。四色問題の如く、未来と過去からあらゆる現在を描こうというこの挑戦だが、四作品のクオリティを見せつけられると無謀な挑戦だとは言えない。すごい作品でした。

 

 

ままごと「あゆみ」(長編)

ひとりの女性の一生、あるいはその可能性を表現しているという点で、短編と異なるものになっている。多くは短編の方で語っているため、それほど深く語ることはないのだが、個人的には短編のほうが好きだ。もちろん、構造自体は短編に比べずっと複雑になっているし、それでいて「わが星」と同じような美しさを誇っている。十字路で幾多の世界線を表現しきっている点もすごければ、犬を演じる女性の姿にやや感情が揺さぶられたのも悔しいことに事実である(は?)。ただ作品のメッセージ、裏に隠された物語への想像力、密度などを考えると、やっぱり自分は短編のほうが好きだなと再確認した。長編も素晴らしいことは言うまでも無い。

 

以上感想。これと同じくらいの衝撃を浴びてえと思い、最近は現代の演劇タイトルを漁っているのだが、どれも大学の図書館になく非常に悲しい思いをしている。いくつかは良さそうなものを見つけているので、社会に出て労働の対価として得ようと思う。