新薬史観

地雷カプお断り

コピー - 自分ビンゴをつくる

kageboushi99m2.hatenablog.com

 

上の記事を読んでとても面白かったので自分もやろうと思いました。ちなみに6個埋まりましたが一列もビンゴしませんでした……。

こういうのをやると、人間全員似たような見た目をしているくせに、中身も経験もまったく違うという当たり前の事実に面白みを感じる。人間づきあいがかなり苦手な自分だが、こうした異なる他者との会話の面白さを可視化されると、見知らぬ人とも会話をしたくなる欲求が高まる。SNSでもリアルでも、黙っている人ほどかなり面白い経験をしているということが多々あるので、ぜひ全人類にやってほしいところだ。そして自分にビンゴのリンクページを送ってほしい。尤も、見知らぬ人同士でこれを交換したところで、さてどう距離を詰めようものかと困惑する可能性の方が高いが、これが知り合いともなると、その人となりを深く知るキッカケになるのは間違いない。

というわけで、自分もビンゴを作ってみた。自分で言うのもなんだが、ちょっと(かなり?)イキリ要素が入っている気がする。ただ、この趣旨は他人の「面白い経験」を共有するためのものだから、目くじらを立てずに流し読みしてください。

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bingo-maker.net

上のリンクから実際にプレイできるはずです。

皆さんも興味があれば実際にプレイしたり作ってみたりしてくださいね。

ジャン-ポール・サルトル『嘔吐』鈴木道彦訳 読んだ!

超有名な古典でありながら全く触れていなかったので、いまさらながら読みました。

 

序盤は面白く、中盤は死ぬほどつまらなく、後半になってまた面白くなってくるので中盤さえ乗り越えたらなんとかなるかも。ということで中盤まではクソ本だと思ってましたが、最後まで読むとなかなかに傑作だと思えてきたので感想と考察を並べていきます(考察が必要なタイプの本なので、ぼーっと読んでいると本当に読んだだけになると思う。少なくとも自分はそう)。

 

本書の目的

「自分の存在をどのように正当化できるか」

上を満たすための思索が本書の内容。

 

それぞれにまつわる表現

【ロカンタンの思想】

・魂の交わりは堕落、金利生活者のように金がある、労働はしない、大切な親族もおらず孤独。若さもない(本当は若いがもう若くないと思い込んでいる)

・恋愛によって存在の途方もない不条理性を隠すためにべつなものを見出す必要がある。自分は特別な存在だと思い込むがそうではなく、誰もが存在していて特別ではない。存在する理由もない。

・どこにも存在しないが、自分に相応しい場所に行きたい

・自分はヒューマニストではないだけで、アンチ・ヒューマニストではない。他者と溶かされたくない。独学者は人間ではなく人間の青春と男女愛と人間の声を愛しているのであり、しかもそれらは存在しない。

・自分たちは存在意義がなく、余計だという点で周囲のものと共通している唯一の関係が持てる。

・全ては不条理性に帰着する。狂人の演説は不条理だが、狂人の思考からは不条理でない。

・ロカンタンはメートル原器のようなもの(アニー談)

・死に近い自由、人は常に負け続ける。

・過去を想像できないが、生涯は見える。←?

・自然が服従しているのは怠惰さからであり、自然に法則などはない。

→簡潔に言えば、あらゆる存在価値のないものが存在している「偶然性(不条理性)」が許せず(理解できず)苦しんでいる。すべての存在は余計である。

→なんとか自分の(余計な)存在を消せないものか考える。

→最終的に自分の存在を消すのではなく、自分の存在を正当化する道もあるのではないかと、自分(サルトル)ではない人間(ロカンタン)の日記を書くことを思いつく。

 

【アニー】

・時々によって救わなければならないものがある。想像以上に挿絵のような特権的状況があるのかもしれない。何よりも必要なのは憎しみや愛で、人が夢中になったり情熱にかられること。また出来事の外面、人の目に見える物が偉大である必要もあった。

・状況は素材で、完璧に処理されることを望んでいる。芸術ではなく義務。道徳の問題

→ロカンタンが存在の不条理性に吐き気を覚えるように、アニーは状況の特権性に吐き気のような「完璧さを与える義務」を覚えていた。

→後にあらゆるものに特権性を認め、若くなくなる。

 

【ロルボン】

・ロカンタンはロルボンとグルになって全員を騙したいが、自分にだけは嘘をついてほしくなかった。

・何もものを持たず、過去も持たない。歴史に価値はなく、嘘ばかりつくロルボン氏にこそ価値がある。過去を捕まえることは不可能(ロルボンの死)で、現在しかない。物は外見通りで、その後ろに本質というものはない。

・ロルボンがあるために私(存在、原料)がいて、私が在ることを感じないため(ロルボンが演じるため)にロルボンがいた。

→歴史上の人物(過去の人間)のロルボンに自分の存在を仮託することで、ロカンタンは自分自身の存在を忘れようとした。あくまで道具に過ぎない。

→かつて存在していたという実在の歴史を持つ時点で、ロルボンは非存在のモデルとして不適当(※やや読解が怪しい)。

 

【独学者(ヒューマニスト)】

・「人間がいるから」存在する。

・捕虜時代に神ではなく人を信じることにした。

・人間と一体化することに快感を覚え、離れると何をしたら良いか分からなくなる。

社会主義者。人間誰もが友人である。他者の存在そのものが人生の目的になる。

ヒューマニストは人間の全ての態度を取り上げてとかしてしまう。(ヒューマニストにもたくさんの区分があるのに独学者は無視する)

→自己の存在をひどく不安に思う点ではロカンタンと共通しているが、ヒューマニストはそれを安定させようと「偶然に過ぎない」他人の存在を根拠に自らの存在を正当化しようとする。その論理性の欠如から二人は全く相容れない存在である。

 

【冒険】

・見ていない未来の瞬間を目の当たりにしているように感じる。

・出来事ではなく、瞬間のつながりのなかに冒険があり、それらは消滅していく。

→ロカンタンは得ることができず、独学者が求めているもの。要するに瞬間にしか過ぎない(この一瞬ごとに消え去る)未来を信じているかどうかという「若さ」の指標。未来(冒険)を信じることができないため、ロカンタンは自らを老いていると感じる。

 

【吐き気】

・物が堅牢さを失って吐き出す霧。

・小石が存在していると感じ吐き気。物が手の中で存在し始めて吐き気。他のものと同じように、私と世界も存在していることへの吐き気。 

・吐き気は私自身。

存在価値のないものが存在している「偶然性(不条理性)」に気が付いたときにロカンタンが覚える感情。存在価値のないものは、周囲のものだけでなくロカンタン自身も告発するために、矛盾する自己の存在に吐き気を覚えるものだと考えられる。

 

【音楽/本】

・音楽だけが自分自身の死を内的必然性として誇らしげに抱えている。

・が、音楽は存在ではない。全ての存在は理由なく生まれ、弱さによって生き延び、出合いによって死ぬからである。

・円や音楽の調べは純粋で厳格な線を維持している。存在は撓み(たわみ)である。その中に猥褻、滑稽な様相(存在)がある。

・話は実は結末から始まっている。始まりから結末によって全てが収束していくから、主人公だから。

・本は誰かのために書くものだ。

・由来が説明できる物は存在せず、できないものは存在する。

・ひとつの現在から別の現在へ変わる中で、メロディは普遍で、レコードに傷があっても影響を受けない。

→音楽や本は、存在を決定する枠組みのようなものであり、①最初から結末ありきで②他者のために作られる(由来が説明できる)という2点において、あらゆる偶然性を帯びている存在と異なり普遍的で存在意義がある。この枠組みのなかを満たすものこそが、人々が心惹かれる豊かさ(余計な存在)である。

 

【存在】

・「あれがカモメである」というより「存在するカモメ」である。存在はあらゆる物、私たち。

・厳密さが欲しい。

・本当の発端は突然に出現し、倦怠に終止符を打ち、持続を安定させるもの。明確な始まりが欲しい、終わりたいから。

・冒険は死ぬことで意味を持つ。

・座席の作られた経緯から、それを座席と名付けようとするが拒む。外見だけから全く別の死んだ驢馬の腹へと解釈する。その時座席は座席でなくなり、物は名前から解放される。私たちを囲むのは物でしかない。

・存在とは外から物につけ加わった空虚な形式にすぎず、物の性質を何一つ変える物ではない。ヴェールである。

・多様性や個別性も同じヴェールであり、仮象。互いに帰属し合うものでもない。残るのは猥褻な裸形の塊。

・存在者には過去も未来もない。

・存在の本質は偶然性。単にそこにあるということ。

・存在したいと思っているのではなく、存在をやめられないだけである。

・由来が説明できる物は存在せず、できないものは存在する。

・黒を見たのではなく、抽象的な作りごとを見た。清潔で単純化された、人間の観念。根の無気力な黒は五感からはみ出しているもの。この豊かさは過剰であるために混乱をもたらし、何物でもなくなる。

→なぜ生まれたのか分からない偶然のものが存在であり、それらは中身に一切の影響を与えないヴェールのように非存在(本質)を覆い、多様性を生み出す。この多様性こそが人が「豊か」だと感じるもの。生まれた理由がなければ死ぬ理由もなく、ゆえに過去も未来も存在しない。

 

【非存在】

・非存在=痺れるほどの豊富さ(猥褻な〜)の間に中間はない。ここの間に存在があるなら、ヴェールが厚くなる。

・猥褻といえる部分まで存在することになる。ダイヤモンドのような小さな苦しみ(余計なもの、つまり存在を何一つ持っていない)。

・音楽の向こうにある。

・純粋で硬質なものにしたい=ダイヤモンド。

→余分なものを何一つ持っていない純粋で硬質なものが非存在(本質)である。ロカンタンが本来到達しようとした場だが、不可能であると気づいた。

 

【意識】

・明晰で不動の人のいない意識が壁の間に置かれている。フッサール現象学の、私の意識以前にある対象についての意識。

・自我は意識のなかにあるのではなく、他者の自我と同じく世界の存在者である。

・意識も苦悩も自分を忘れることだけはできない。

→文章に記すことができる(「ある」)時点で必ず存在する。不在も「ある」もの。どこかの哲学書で読んだ気がするが忘れた。

 

【作品の構造】

他者の存在を正当化することはできないが、音楽や本などの作品を通して、架空の存在において誰かの過去に光明を落とすこと(貴重なものや伝説を考える時のように)は可能ではないか。その時に初めて作者は嫌悪感なしに自分の生涯を思い出せる。

過去においてのみ自分を受け入れられる。

 →存在していない(何等かの目的のために作り出された)ロカンタンという架空のキャラクターを主人公にしたことで、主人公から歴史を除くことに成功している。つまりロカンタンがロルボンではできなかったことを、サルトルはロカンタンで行おうとしているというメタ構造になっている。しかも、結末から書かれる「本」という媒体を選択したことで、読者である我々がロカンタンと本を超えた先の「何等かの過去」に光明を落とすことが可能になる。その時に初めて作者(サルトル)は自分の生涯を思い出せ、自己の存在価値を肯定できるという非常に卓越した技術で書かれた作品だった。

 

【感想まとめ】

基本的に文章力がかなり高い。哲学要素を含みつつも、独特の描写は十分に読み物としても高級なものだと思う。エンタメとしては中盤でガチでクソになるが、最後まで読めばそれが報われるので、興味のある人は是非読んでほしい。嘔吐の解釈がこれでいいのかはわからん。もっと「意識」のあたりを掘り下げる必要はあるかも。

 

【2021年6月】今月触れた作品の感想を書くます

あまりに怠惰でまったく更新していませんでした。すみませんでした。お詫びに(?)今月触れた作品の感想を作品媒体別に書こうと思います。

 

 

【アニメ】

①オッドタクシー

oddtaxi.jp

天才オリジナルアニメーション。知り合いに教えてもらって視聴をしたが大当たりでした。パッと見動物のほのぼのアニメかなと思いきゃ全く違う。シナリオがかなり丁寧に作りこまれており、ありふれた設定のようで新しいミステリ作品に仕上がっている(ミステリ全然知らんけど)。

簡単なあらすじだが、特に何の欲もない(枯れたとも言う)タクシードライバー「小戸川」とその周囲の人々が、ヤクザの人間と絡み合い銃弾は飛び、血が噴き出るアニメ。なんといってもマクガフィンの転がし方がうまく、人間関係のほつれや修復も心地いい。最近のアニメでは珍しく、性欲に真剣に向き合っていて、人間の醜さをしっかり演出できるところも良かった。芸人が声優として出てきているのに、そこまで違和感なく、なおかつしっかり作品内に芸人が組み込まれているのも珍しい*1。まだ完結していないが、間違いなく傑作アニメだろう。最近のなろうアニメに疲れた方におすすめ。

個人的に、脚本の此元和津也さんと監督の木下麦さんに注目したい。

 

②スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました

slime300-anime.com

めちゃくちゃ悔しいがすごく面白いアニメ。なぜ悔しいかというと、2010年代に大量生産された「嫁侍らせやれやれ男主人公アニメ」の主人公を女にしただけのアニメだから。本質的には相手を一人ひとり力で屈服させてハーレムの仲間に引き入れるという目も当てられない脚本のはずなのに、同性だからという理由だけで関係性の卑しい上下関係が不透明になる(ように見える)のがかなり悔しい。結局俺は百合ならなんでもいいということなのだろうか?そうかもしれない……。

冗談はさておき、このアニメの編集がかなりうまいように思う。というのは間の置き方、セリフのテンポなどがかなり一定で心地よく、雰囲気で言うなら『このすば』のような稀な快適感が味わえる。異世界アニメはクソだと思っている人も、これを見れば悔しい気持ちになるかもしれない。ならないかもしれない。

 

スーパーカブ

supercub-anime.com

かなりいやらしいアニメ。というのも、自分はこのアニメにおけるスーパーカブという題材と、博先生のキャラの可愛さと、BGMとして流れるクラシック音楽から、少女の孤独を表現しているのだと思っていた。個人的にはこれらの要素はかみ合わないものだと思っており、わかりやすく言うなら「マウス、混浴、寿司」くらいの断絶イメージである。なんら「つながり」が見えないこの世界において、小熊という少女は孤独なのだ。生い立ちや交友関係からもそれは補強できるだろうし、その後のスーパーカブを通した(カブがなぜスーパーかという話題を共通項としてつながる)交流によって僅かではあるが交友関係が広がるのもいい。しかしながら、途中から小熊はスーパーカブが持つスーパーさを完全に把握した「何者か」になり(ここでバイク乗りのおっさんということもできるだろうが、自分はそこまでは踏み込めない)、かなり人物像が不安定になる。修学旅行でヤンキーになる辺りは面白いのだけれど、椎ちゃんが出てきたあたりから話はさらにこじれることになり、スーパーカブが持っていたはずの「スーパー」さを小熊が持っていることにされてしまう。小熊本人は「いやいやすごいのはカブだよ」というテンションだが、そこの責任を小熊が取らないあたりで話がややこしくなっている。というのも、この時には小熊はすでに孤独な少女ではなく、スーパーカブの魅力に取りつかれた「何者」かになっているからだ。この「小熊だったもの」と礼子はスーパーカブのヒーロー性によって強い側(正義とも言えるかもしれない)に立っているように見えるのに対し、バイクに乗ろうとしない椎ちゃんはまるで悪者かのように日常ではうまくいかないし、山道では事故にあう。この後の話の流れもそうで、結局作者がやりたかったのは「カブはマジですごいよ」であり、孤独をカブが薄めてくれるという話ではなかったんだなという印象を受けた。本当に後者が主題なのであれば、椎ちゃんに「バイクに乗ることの気付きを与えてくれたのはこの子だ」という形で憧れの円環構造によってバイクの有無の壁(自分には、バイクの有無と身体的な差異や下着の扱い、事故の時の椎ちゃんの見下しているような扱い方は無関係であるようには思えない)を崩す展開にはならないだろう。これではバイクの特権意識を鼻折られた「小熊だったもの」の話でしかなく、せいぜい伝えられるメッセージは「カブによって人は調子に乗る」程度のものにしかならないはずだ。自分は作者じゃないので、この作品のテーマに口を突っ込める立場にないわけだが、それでも「そうじゃないだろ」とは言いたい。個人的にはこの路線は好みでなかったためにあまり人にお勧めできないアニメとなった。序盤はとても良かっただけに残念。

 

ゾンビランドサガ リベンジ

 

zombielandsaga.com

流石の面白さ。非常に安定しており、「この2期が見たかった」にどこまでも忠実に答えてくれるアニメの優等生。オリジナルアニメでこのクオリティのものを続けてだせるのは本当にすごいと思うので、これからも頑張ってほしいです(まだ最終回を見ていないので下手なことは言えないのでした)。

いつか佐賀に観光にしに行きます。

 

【ゲーム】

逆転検事

逆転裁判が好きだと言っておきながら、検事の方をまったくやっていなかった矛盾を知り合いに指摘(異議あり!)されてしまい泣く泣く買った。アップルストアのアプリ版なら2500円くらいで全編購入可。

正直、面白いのだがまあまあ楽しいレベルに落ち着いてしまった。というのも最後の決定的な謎にかなり序盤で気付いてしまったからにほかならず、ラストの盛り上がりに欠けてしまったからだと思う(自分の気付き力が高いわけではなく、かなり露骨でわかりやすいネタだから同じような人は多いんじゃないか)。そのなかでも第2話の「逆転エアライン」はトリックの構成が緻密で面白かった。なかなか思いつかない話だと思うし、新しいストーリーだなあと思えた。

システム面では、舞台を法廷から現場に変えている時点で新しい体験になっている。逆裁では画面内のカーソルを動かして証拠を集める感じだったが、検事では自分が動くという点でこれまた面白い。もっとも、探偵パートと法廷(?)パートの区分がしっかりついていないからだと思うが、現場でそのまま追及を始めるのは、なかなかにシームレスでよかった。糸鋸刑事と御剣の仲の良さも知れたし、ヒロインの美雲ちゃんもかわいくて良かったが、たまにしゃくれるのは何なんだ。全体的には良ゲーでした。

逆転検事

 

こちらもアップルストアのアプリ版なら2500円くらいで全編購入可。

神!といえるくらいにシナリオが練られている。これぞ逆転シリーズと言いたいゲーム。一見何の結びつきもない事件がかなり綺麗に結びつくのが面白いし、全編を通して「親と子の因縁、絆」というテーマがちりばめられているのも最高によい。というのも、御剣は弁護士の父を殺され、本当であれば弁護士になるところを検事に無理やり転換することになった人間だからだ。その感情は父を殺害した人間への憎しみでしかなく、まったくポジティブなモチベはなかった。そんな彼が御剣を救いたいという圧倒的ポジな感情で接近する成歩堂に強く影響されるのも無理ないことで、この2ではそこの感情の揺れに注目しているのが素晴らしかった。そして、この親子のテーマが様々なキャラの心理にも流れており、嫌みたらしくなく親子についてプレイヤーを考えさせられるつくりになっている。御剣はもちろん、狩魔の関係、一条の関係などなど、2では描かれていない関係が作品全体を補強しているのも大好きポイント。第2話「獄中の逆転」、第3話「受け継がれし逆転」、第5話「大いなる逆転」がお気に入り。なかでも第5話の面白さは格別だった。おすすめ。

 

洞窟物語(cave story+)

すんごくよかった作品。知り合いにお勧めしてもらったものだが、ピコピコ電子音のBGMが心地よい。難易度はアクションになれていない人(自分がそう)にとってはやや難しめだが 、初めに一番簡単なものを素直に選べば、なんとかクリアはできるようになっている。ミミガーという耳がながい種族と、それを調査しにきた人間とロボットの話で、イメージとしては有名どころの『UNDERTALE』が思い浮かんだ。が、それも当然で実はアンテの製作者(Toby Fox氏)が影響を受けたゲームとして名前を挙げているタイトルがこの洞窟物語なのだ。この影響の受け方がすさまじく、正直に言うとアンテの良さの4割はこのゲームから来ていると言っても過言ではないと思う。それくらいアンテのシナリオの骨格自体がこのゲーム由来のものなのだ。

キャラもいいし、セリフもひねくれているところがあって良い。水にこだわったという描写も最高だし(これが後々の演出にすごく効いてくる)、ヒロインもめちゃかわいい。

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ヒロインのカーリーブレイスちゃん

というわけで、シナリオ、キャラ、空気が抜群だし、プレイ時間も(それなりにアクションが得意なら)10時間もあればクリアできるはずなので、ぜひやってほしい。特にアンテ好きなら、その源流を探るという意味でもかなりオススメ。

 

【映画】

岩井俊二スワロウテイル』(1996)

これすごかった! 「円都」と呼ばれる無国籍地帯を舞台に、母親を殺された少女と彼女を引き取った娼婦の交流を描く作品。最初に言えばしっかりとした百合作品なのだが、それ以上にSFしている。世界観の組み立てがうまくてびっくりした。セリフのテンポが悪いなと最初は思っていたのだが、これは花とアリスでも思っていたことなので、たぶん岩井俊二と自分のナチュラルなテンポがかみ合っていないのだと思う。のちに映像の良さに引き込まれて気にならなくなったので助かった。

シナリオとしては「アゲハ」に象徴されるように、鬱屈した閉じた世界で身体を売っていた少女たちが、違法な手段で金を手にして成功していく話ではある。ただ、この作品における羽化は、あくまで同時代に存在している生存環境の移動でしかなく、映像としてもわかるように、いま観客にとってカメラを取れば当たり前に撮影できる日本の街の風景がまるで異世界のような扱いになっているし、何より皆が日本人であることを強要してくるものになっている。どこからどう見ても日本人の特権意識を少女の未熟性という観点から打ち砕こうという岩井俊二の強い意思が透けて見える作品であり、そしてそれは成功しているように思う。文句なしに面白かった。

 

タル・ベーラニーチェの馬』(2011)

ニーチェがぼろぼろの馬を見て「可哀そうすぎ!」と泣いてからそのまま自分も弱って死んだ』という逸話をもとに製作された作品。かなり静かで、独特の映像になっていた。アレクサンドル・コット「草原の実験」にある意味で近いが、目がくらくらしそうなパワーのある映像はあまり無く、どちらかと言えばタルコフスキーの作品群に類似するかもという印象だった。おそらく、映像のパワーのなさ(逆に言えば弱体化)はモノクロにすることで実現し、作品に登場する力ない人々をうまく映像化できているのだろう。そして馬が弱るということが家計に直結し、どんどん追い詰められていくという言葉にできない苛立ち、諦観が画面の隅々にまで広がっている点も加えて、かなり負の方向に飲み込まれる作品になっていた。最後の終わり方は秀逸。よかったです。

 

鈴木清順ツィゴイネルワイゼン』(1980)

ズルい。かなり面白かった。そんな演出があるのかという驚きで何度も頭を殴られる作品になっていて、「意外性」をそのまま形にしたような作品。その意外性は音、映像、人物など多岐にわたり、寺山修司『書を捨てよ町へ出よう』を見ているときのような不条理さを感じる。不条理なのだが面白いのは、その耽美な映像と脚本が良いからだろう。最初に提示されたサラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』の音楽の途中に入っていたセリフはなんと言っているのか、というものが作品全体に貫かれており(そもそもこの作品はなんと言っているのか?)、最後にきちんとその謎が置かれているあたり、ややこしくも脚本の構成はきちんとしているように思う。中砂と靑地の関係もかなり面白いだろう。靑地は中砂からめちゃくちゃな仕打ちを受けているのに彼のすべてを受け止めようとするし、どうしても彼のことが気にかかってしまう。中砂夫妻の間に生まれた子は靑地の下の名前からもらっている。「焼かずにそのまま骨になることこそが良い、互いに死んだらその骨を渡そう」という中砂の言葉は靑地をしばりつけ、妻の不倫には動揺しているような素振りを魅せなかったのに、中砂との約束が叶わなかったときにだけ見せる靑地は人間らしさを見せる(中砂の死の報告を受けた際に、靑地(男)の方にだけやたらと花びらが多いのはその感情の差を表しているのか、とも邪推する)。これらの要素は個人的に重くのしかかり、作品全体から同性愛を匂いを感じ取ってしまった。最後に「生者こそが死者である」という転換が行われるが、これが何を意味するのかはやや怪しい。強いて言うならば、ツィゴイネルワイゼンに入ったいた声は死者のものであり、靑地が聞けなかったのは生きていたからである。これからようやく靑地は死んでレコードの声が聞こえるようになり、中砂と同じ世界に行けるのである。それは靑地にとってこの上ない喜びなのではないか(中砂とは対照的に作品で一切語られなかった靑地の快楽が作品外で語られるのではないか)という読み方をした。

いずれにせよ、この脚本と映像は鈴木清順監督作品でしか味わえないものだろう。いい体験をしました。

 

⑪古川知宏『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』(2021)

感想としては、アニメが好きなら絶対に観た方がよいと思いました。スタァライトというコンテンツに脚を生やさせ、しっかり地面に立たせた傑作。古川監督はそろそろイクニという文脈から切り離され、菱田正和京極尚彦のように、ひとりのコンテンツの立役者として名声を得てドンドンおもしろアニメーションを作り上げてほしいし、オタクもそのつもりで古川さんの名前を挙げてほしい。

考察はこちらをどうぞ。

negishiso.hatenablog.com

 

平尾隆之『映画大好きポンポさん』(2021) 

微妙。映像としてビビッドな色に心を打たれるときもあれば、実際に映画の編集をしているときの映像の良さ(作中作のシーン)に唸るときもあった。が、それ以上に編集のカットが臭い。山崎貴のようながっくり感があるというか、一般大衆に向けたジャパニーズへぼ演出(おもに謎の剣でフィルムをカットするシーンとそれに合わせてジャパニーズ音楽を流すところ)をやめてくれというのが一点。また同様に、「幸福は創造の敵だ」というテーマのもとで作品がつくられているのだが、そうして幸福な人間を徹底的に排他した先にこの作品がある。ところが、この作品の声優のキャスティングや劇中歌からもわかるように、プロデューサーからの圧でかなり一般大衆に向けた作品(上にあげたダサ演出)を生み出すに至ったのではないかと邪推をしてしまった。つまり作品としてテーマを訴えるだけの説得力を感じられなかった。ニャリウッドを舞台にしているんだから、劇中歌はもっと相性がいいのが別にあっただろうし(劇中歌そのものを批判しているわけではなく、組み合わせが悪いという話)、画面演出もかなり練られた構成とぴったりのもっといい意味で気持ち悪いものがよかった。それこそジーンくんは精神世界に行くのではなく、映像ばかりを映しまくって正反対に現実世界の静謐さを押しだすだとか、狂気に満ち溢れたカットがあってもよかったように思う。映画以外に何もない狂気の監督という設定なら、気軽に精神世界でヒーローにしないでほしかった。とはいえ、漫画原作から「何かを残すこととはそれ以外を捨てること」を抽出して追求したのは映画化の試みとして面白く、そういう意味では楽しい作品だった。

それから、この作品のメッセージをさらに言語化すれば、「何者かになりたいけれど何にもなれないのが怖くて保険を意識してしまい、何も捨てきれない現代人への批判」になると思うのだが、これをジーンの生きざまとしてではなく観客にぶつけてくるのかと感心してしまった。とはいえ、これだけ現代と幸福を批判しているのに作品自体が先述のアレになっているのは惜しいところではある。臭い演出がなければ傑作だった。

あと小原好美さんの演じるポンポさんが大好き。

 

【書籍】

秋山瑞人「おれはミサイル」(2002)

最高でした。さすが秋山先生、あまりの文章の巧さに泣きそうになってしまう。星雲賞日本短編部門を受賞した歴としたSF作品。相変わらず武器や飛行機のディテールが丁寧で、なおかつ心理描写と状況説明の融合がすごく心地いい。ありがとうございました。『海原の用心棒』も読まないといけない。

 

【演劇】

⑭ままごと『朝がある』(2012)

kan-geki.com

良かった。一人芝居とは思えない身体の動きとセリフ量。それをすべて完璧にやりきるすさまじさに感動した。作品は太宰治『女生徒』を基にしたものではあるが、そこまで強く女生徒の感情を掘り下げるものではなく、むしろ女生徒の外の世界を積極的に広げていく試みを行っていた。柴幸男お気に入りの明確な数値を羅列することで現実世界と理論の世界を接続しようとする試みはうまくいっていたと思う。伝えたい様々な理論が、肉付けられて作品になる過程を見るような感覚。

⑮ままごと『わたしの星』(2019)

kan-geki.com

同団体の不朽の名作『わが星』の学生ver、それをさらに改変してこの脚本になったらしい。女子生徒が多く、自然と物語が百合に近いものとなる。百合だと言い切ることもできるが、この舞台で行われているのは「自分が輝くための舞台の移動」であり、そこに百合がぽっと置かれている感覚。季節は夏で、登場人物は人生の夏を謳歌する高校生で、火星への移住が進んだ地球では過疎化が進んでいた。ここから単にこの舞台を「田舎」と「都会」に還元してもよく、あえてそうしないのは柴幸男お得意の日常とスケールのでかさの接続を演出できないからだろう。幼馴染百合もいることにはいるが、彼女たちはお互いにとっての居場所を見つけ、場所を「移動」してもなお関係性は変わらないというメッセージに落ち着いている。自分が好きなのは身体性を伴う運命共同体なので、身体が離れると少し寂しい。まだこの程度の解像度でしか百合を楽しめないのは、お子様ということなのかもしれない。

 

上田誠夜は短し歩けよ乙女』 (2021)

www.yoruhamijikashi.jp

土曜日にたまたま見つけ、その翌日に観劇した。

結論から言うと最高の観劇体験だった。自分の好きな作品(小説でもアニメでも)が演劇になるという体験をしたことがなかったからかもしれないが、原作を知っていると、「原作・アニメでの表現が舞台ではこのように表現されている」という差異を楽しむことができるため、マシマシで楽しめた。

原作はかなり有名な作品なのでご存じのかたも多いと思うが、この作品は主人公(先輩と黒髪の乙女)の語りが非常に長い。文章そのもののリズムにもおもちろいといころがあるため、息継ぎをしたりゆっくり話すと途端に面白みが損なわれるので、「リアルで、その時その場所で」行う舞台ではめちゃくちゃに難易度が高いと思われた。しかし先輩役の中村壱太郎さんも乙女役の久保史緒里さん(乃木坂46)も圧倒的記憶力と演技でその役を務めあげ、狂気の沙汰でしかなかった。ヤバすぎる。舞台の演出に取り組んだ上田誠さんは何かと森見作品に関わっているヨーロッパ企画の人だが、この人は本業が舞台であるだけに舞台演出が半端なくうまく、「ここでその音楽を差し込むのか」という驚きと音楽と語りのリズムの心地よさで、読書以上の快感をもたらしてくれた。最後のラップは完全に自分が好きな柴幸男『わが星』に通じるアレが来て、発狂しそうになってしまった。自分の好きなツボをしっかりと押え、最高の原作を最高の舞台に仕上げている点で文句なしの百点満点。こんなにきれいな映像化はあるのかと唸るレベル。ただひとつだけ残念だったのは(文句ではない)、詭弁踊りの重心の低さが足りなかったところである。もっと腰を落とせ!

 

【漫画】

大島永遠大親友』

めちゃくちゃに好きな作品。自分の大好きな幼馴染百合であり、最初はちょっとすれ違う系の路線でもある。この作品の面白さは構成であって、『水野と茶山』のように最初からこの作品全体を俯瞰する視点があって、毎巻の最後には(アニメ『かくしごと』でもやられていたように)しっかりと大人になったとろろちゃんがいる。このように何度も過去の思い出であることを強調することで、現在の見通しの不透明さと過去の濃厚な時間を対比することができているので、学生時代の特権的な関係を浮かび上がらせるのがうまいなあと思った。あとキャラがめちゃくちゃにかわいい。とろろがいい。本日3巻発売日です(21/06/28)。

 

柊ゆたか『Good night!  Angel』

柊ゆたか先生といえば『新米姉妹のふたりご飯』だが、その前作がこれだった。殺し屋の女子高生同士の物語なのだが、主人公は殺し屋とは無縁の日常生活を望んでいるという点で目新しく感じた。殺し屋系の話は無感情に殺すキャラが感情を取り戻したり〜と言ったストーリー展開が基本だと思い込んでいたので。

で、これまた新しいのは主人公を崇拝する系百合キャラが登場してストーキングされまくることなのだが、主人公は一切脇を甘くしないところが面白かった。なんやかんやで脇が甘くなって云々というストーリー展開ではなく、絶対に自分の大事なところは初めて手に入れた親友のためにだけ空けておきながら、その余った空間だけを彼女に譲るという生き様がすごく良かった。殺し屋というほど死とは向き合ってはいないが、誰も好きを諦めない物語である。面白かった。

 

⑲プレジ和尚『放課後のアルケミスト

微妙。作者のやりたいこと(マッチョを描く)と、作品の世界観(錬金術)が不幸にもマッチしなかった作品。錬金術に圧が必要で、やりすぎるとマッチョになるという世界は独特だが、だからとって物語の駆動力になっているわけではなく、明らかに大筋から逸れているのがもったいないポイントだった。

 

杉谷庄吾人間プラモ】『映画大好きポンポさん』シリーズ

漫画にして映画をやっているかなり面白い作品。pixivで話題になったときに自分も読んだことがあったが、そこからよくぞここまで(映画化)きたものだと思う。実際に漫画全三巻の内容はしびれるし、キャラクターがかなり魅力的。番外編のフランちゃんとカーナちゃんについてはぼちぼちだが、それがしっかり本編を盛り上げているので作品全体としてはかなり仕上がっている印象を受けた。面白かった。

 

山本さほ岡崎に捧ぐ

神。百合作品としてもいいが山本さんの人生がフィクション性に満ちていてそれだけで面白い。どこまでが本当で嘘なのかはわからないが、エピソードをしっかり漫画に落とし込む構成力も現実の自分たちの関係性をしっかり作品内のものとして描けている点(不要なものがほとんどない)も素晴らしく、なにより岡崎さんから山本さんに向けられた感情を考えるたびに胸が苦しくなる。「(ネグレクトから自分を救いだした)山本さんと出会うことにすべての幸運を使い果たした」と言う岡崎さんと、それを恥ずかしがらずに(褒めている)作品のキャラクターである山本さんに言わせる作者の精神力がすごい。記憶力もめちゃくちゃいいんだなと思う。唯一の欠点はnmmnなので百合と気軽に押し出せないところだろう(どこまで本当なのかわからないけれど)。

 

㉒うちのまいこ『ななつ神オンリー』

微妙。最近のきらら系漫画の上澄みだけ救って集めたもの。作品の核がない。

 

鴻巣覚『やさしい新説死霊術』

面白かったように思う。系統としては重めのきらら(ミラク)。死やその魂を扱うテーマにたがわぬ薄暗さがあり、どこか本気になり切れないところでもバランスのとり方がうまい。ただ漫画の巻数が短く(全2巻)、作者はもっと世界を広げたかっただろうなと思うと編集はもったいないことをしたなと残念な気持ちになる。リアルタイムで応援できていない時点で自分が連載について何かを言うことはできないのだが、もう少し長期的に見てもよかったんじゃないかなとは思った。せめて4巻あれば、この作者ならしっかり物語を描けていたと思う。

 

㉔せらみっく『ねことちよ』

ほのぼの系だが、微妙なところに怖さがある。ねこ(少女)の寝床が段ボールだったり、そもそも「ねこ」という名前であったりするからねこから人間になった少女が「ねこ」なのかとおもうが、それにしてもほかに名前はあったのではと思うし、ちよがねこに向けている感情が性的なものかどうかでこの作品の恐ろしさが変わる。作者名もタイトルもひらがなでほのぼの癒し作品感を出していて、事実それはしっかり果たせているとは思うので杞憂だと信じたい。続巻はでるのだろうか。

 

【おまけ】自作小説

最後におまけです。偉そうに作品の批評?感想?を書くだけの嫌な奴認定をされたくないので、今月開催されていた『日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト』(通称:さなコン)に応募したやつを挙げておきます。

www.pixiv.net

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確か一次選考が七月上旬で結構近いんですよね。まあ落ちたら落ちたで「審査員の人にはこの作品の良さはわからなかったんだな」というクソポジティブシンキングでやっていくつもりですが、この前知り合いと話して、もう少し構成や視点を考慮してもよかったかもしれないなと思いました。 なんやかんやでプロかアマチュアか判別しがたいような人たちが紛れ込んでいますし、応募総数は1000作ということなので、正直思った以上にデカいコンテストになっているっぽいです。倍率100倍とかですからね。まあ気長に待ちつつ他の構想中の作品も形にできたらなあとは思ってます。

 

以上。

*1:経験則上、芸人が出るアニメはあまり面白くないと思っている

【ネタバレ注意】劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト 考察

この記事は劇場版スタァライトのネタバレ含みます。お気をつけください。

 (サムネイルネタバレ回避用のロロロを何個か置いておきます)

ロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロ

 

ここまで置けば大丈夫でしょう。

というわけで劇場版スタァライトを2回見ました。1回目のあとすぐに2回目に入ったので休みがなく「しんど」と思ったのですが、やっぱりノータイムで見ると記憶が定着していいですね(もちろんそれだけでは足りないのでたまにメモをしたりしましたが)。

自分のなかでこの映画の全体像というか、ギミックにかけてもいろいろ考えることができたので共有します。一個人の感想(考察)なので鵜呑みにしないようにしてください。他人の言葉じゃなく、自分の言葉で語ったほうが良いですからね。

まあ、これは星見純那の言葉ですけれど……。

 

「ワイ(ル)ドスクリーンバロック」って何?

これは映画内でも触れられているので簡単に。

そもそも「ワイドスクリーンバロック」という用語があります。これは太陽系レベルの規模のめちゃくちゃ奇想天外なSF作品、という意味です。このワイドをもじって「ワイルド」とすることで、「野生」の意味を付与しています。

じゃあ「野生」ってなんだ?となるところですが、これも映画で言及されていて「どんな舞台に立っても、すぐに飢えと乾きによって次の舞台に移り、互いに役を求めて争う舞台少女」のことです。野生動物の「醜さ」「貪欲さ」をイメージしてのものだと思います。

本作では、そのような野生の動物として扱われていたのが、ばなな・華恋・ひかりと言った運命の舞台の担い手以外みんなです。一度もトップスタァになれていない、だから飢えているわけですね。

この作品は、そのような「飢えた舞台少女によるめちゃくちゃ奇想天外なSF作品」という意味で「ワイルドスクリーンバロック」と題しているのでしょう。それに違わぬ映像になっているように思います。

 

「トマト」って何?

他の人の感想のなかでも、「禁断の果実」について触れている方が多い印象でした。昔は毒があって食べられなかった、とかいう話もあるようですがそこらへんは個人的にはどうでもいいかなと。だって禁断の果実で調べて見てほしいんですけれど、禁断の果実の候補はかなりあるんですよ。それこそ有名なリンゴであったり、ブドウ、イチジクとかもそう。個人的には「禁断の果実だから」という理由だけでは選ばれないと考えています。リンゴに勝る理由がない。

なので、まずは「何故トマトなのか」と考えた方が良いんじゃないかと思います。

 

・なぜトマトなのか?

これは僕の想像ですが「赤いから(果汁が血を思わせる)」だけでは理由として不足なんじゃないかなと。というのも、監督のイラストが「緑」を強調しているからです。

 補色関係で目が痛くなる赤と緑、正直デザインとしてはかなり悪手な部類に入ると思うんですが、それでも緑が置かれている理由を考えた方がいいかなと思います。偶然にも作中に出てくるトマトは、すべてへたがついていて赤と緑に分類されていますし。

言うまでもありませんが、この組み合わせで思いつくのはクリスマスカラーでしょう。クリスマスにおいて、赤は「キリストの血」を、緑は柊の葉の「キリストの茨の冠や受難」を示したり、もみの木の「永遠の生命」を示したりするようです。緑の意味を前者だとしたとき、スタァライトにおける「血」や「受難」の意味するところがかなり鮮明になるのではないでしょうか。

さらに、トマトが持つ「瑞々しさ」にも注目した方が良さそうです。リンゴやイチゴを潰した時、果たして血のイメージである果汁が飛び散るでしょうか。その液体は、舞台少女の「乾き」を満たせる水分を含んでいるでしょうか。

このあたりを考えると、トマトが「禁断の果実」として選ばれた理由が自然とわかるんじゃないかなと思います。

 

次に、「禁断の果実」がスタァライトにおいてどのように機能していたのかを見ていきましょう。「禁断の果実」とざっくり言っただけでは、この作品におけるトマトの役割を十分に理解できたと言えないように思います。

というわけで、トマトがどのような場面で使われていたのかを、下に箇条書きしました。もちろん見逃しているところはあると思いますが、大まかにはこの辺りでしょう。

トマトが使われていた場面(思い出せる限り)

・映画の初めのカット、砂漠の上のトマト→潰れる

・九九組(華恋・ひかり除く)が死んだ自分たちを見てレヴューを決意する時→齧る

・ひかりが華恋の危機に訪れた駅の広告(砂漠のうえのトマト→潰れ:ロンドン時代のひかりの定期公演のロゴのように、カリギュラスブライトに刺されて潰れている、溶けている)

・キリンがジュゼッペ・アルチンボルドの『夏』(ここも注目すべきで、少女たちにとっての人生の過渡期、人生の青春はいうまでもなく「夏」であり、そこへの目配せもあるかも)を思わせる「野菜で出来たキリンのようなもの」になった時に、ひかりの目の前に落ちている

・華恋とひかりが出会う時に、ひかりの背後にトマト(星罪の塔の星?の部分に置かれている)→華恋が死ぬと同時に潰れる

 

ざっとこんなものでしょうか。例に挙げた通り、トマトの用途としては「食う」か「潰れる」か、というのをまず意識した方が良いです。

そして作中でも言われていることですが、

トマト=贖罪=食材=野菜(食材)でできたキリン(のようなもの)=観客の総体

という連想もした方がいいんじゃないかと思います。キリンが観客(の総体、決して私たち個人ではない)というのは何度も言われているので指摘するまでもありませんが、今回も「間に合わない」「見逃したのか」など観客と舞台における関係性を思わせる言葉を吐いているところからも連想は可能かなと。

では上の二つの太字から考察を進めるのですが、まず「潰れる」トマトから。

 

・潰れるトマト

この潰れるトマトは、基本的に華恋とひかりが相対する時に出現します。これらは誰にも食べられないために(食べる人がいないために)潰れる、つまり「食材」ではなく「贖罪」のトマトと言えるでしょう。これは前作の総集編「ロンド・ロンド・ロンド(以下ロロロ)」の流れを受け継いでいます。(自分の考察記事は下)

negishiso.hatenablog.com

 

つまり、願いが叶う運命の舞台の主の流れとして、ばなな(アニメ10話まで)→ひかり(アニメ最終話まで)→(ロロロ)→華恋(本作)と来ているなかで、このひかりから華恋に運命の舞台が受け継がれる際の概念のとしての「贖罪」なのだと自分は解釈していいます。で、ここでしっかり把握するべきはそれぞれの舞台における願いと贖罪でしょう。下に列挙します。

【ばなな】

願い「永遠に繰り返す舞台」

贖罪「全員のキラめきの喪失(キリンのオーディションのデフォ贖罪。戯曲スタァライトをモチーフにしているアニメ作品「レヴュー・スタァライト」だからこうなる)」

→しかしながら、全員のキラめきが喪失してもまた99期の初めに戻るので、実質的に誰もキラめきを喪失せずに贖罪はないような扱いになる。

(アニメ10話ラストにて、ひかりが運命の舞台に立つ)

【ひかり】

願い「誰からも(と言いながらほぼ華恋目的だが)キラめきを奪いたくない」

贖罪「飢えに乾く砂漠(星罪の塔)への幽閉(スタァライトモチーフ)」

→しかし、ここに華恋が飛び入り参加。ひかりの肩掛けを落とすことで、運命の舞台に立つのは華恋に。

 

というわけで次は華恋の「願い」と「贖罪」が描かれるべきなのですが、本作を見れば分かるように、華恋は運命の舞台に立つこと(ひかりと再会すること)だけが願いであり、舞台に上がるモチベでした。なので華恋にとってはアニメ12話でゴールを迎えたも同然で、これ以上の願いはないために贖罪も発生しないのです。

つまり、誰かに食べられるべき運命の舞台(めちゃうまいが食べることで贖罪を生み出す「禁断の果実」であるトマト)は誰にも食べられることなく、自壊するほかなかった。

おいしさと罪が両立しているトマトって、完全に「運命の舞台」そのものですよね。

これが人に食べられないトマトの意味するところです。潰れるトマトは、運命の舞台に誰も立たなかったことを示します。そして、華恋が舞台に上がらないということは、舞台少女としての愛情華恋が死を迎えることを意味します。舞台に上らない舞台少女はただの少女なので。

 

・食うトマト

次に食べるトマトについて考えましょう。まず九九組(華恋・ひかり除く)が死んだ自分たちを見てレヴューを決意し、トマトを食うシーンが思い浮かぶと思うのですが、前提から考えると「みんなが運命の舞台を食ってる!」ということになるかと思います。しかし運命の舞台に立てるのは一人であり、その願いを叶える力を持つのは華恋のみです。よって、華恋とそれ以外の人が食うトマトには、食材とは違った意味「も」あるんじゃないかと考えています。

それが食材=キリン=観客の総体の方程式です(ぼくはここにめちゃくちゃ感動しました)。トマトはあくまで「食材」のひとつとして扱われるということですね。禁断の果実ではなく、野生の舞台少女の飢えと乾きを満たせる、汁と果肉を持った食材としてのトマトです。舞台少女は、この飢えと乾きを満たすものを求めて舞台に立ちます。では、舞台少女にとっての飢えと渇きとはなんだ?ということになりますね。

これは言うまでも無く「トップスタァへの渇望」なのですが、もう一歩踏みこむと、「そもそも観客がいないと、舞台を見てくれる人がいないと舞台は成立しないよね」という素朴な気付きを得ます。逆に言えば、観客がいなければ舞台は成り立たないし、舞台少女はトップスタァを目指さなくてもいいわけです。要するに、トマトを食材として見た時、舞台少女に栄養を与える食材としてのトマトと、舞台少女が舞台に立つための必要条件である観客としての食材のトマトが重なっているのです。そういう意味において、観客=トマト(正確には食材)と言えます。また、この説を補強するためにあえてイラストではなく実写の食材が描かれていた、というのも言及しておきます。なぜキリンはイラストではなく実写の食材から出来ていたのか。実写の食材と次元を同じくするものは何かを考えればすっきりするはずです。

 

・つけるトマト

さて、TLを観ると、映画を見てトマトを半値につけている方が散見されます。確かにそれはネタバレにならない範囲での拡散になり、視聴回数も演出できるという点でいいアイデアだとは思います。が、この仕草は自分たちが観客でありながら、舞台少女を辛い目に遭わせる食材でもあるのだという自覚表明になるんじゃないかと思っています。

観客とは、舞台少女の生き様につけ込み野生としての闘争を煽る存在です。

舞台少女はそれ(観客から見られること)を理解しながら、闘争への決意を抱きます。

この流れを踏まえたうえで、「観客側が」トマトを半値に付ける行為は、自分からするとかなり罪深いなと思うのですが、そう感じるのは僕だけかも知れません。

以上、トマトの考察でした。

 

皆殺しのレヴューって何?

前提から考えると、電車=敷かれたレールを走る=確定した「次がある」未来ですよね。よって少女が電車に乗ることは、自らの可能性を最小限に押しとどめることだと考えていいと思います。当然ながら、新宿駅に立っているだけならどんな行き先の電車にも乗れますけれど、総武線に乗ったら山手線や京王線には乗れませんからね。

でも、舞台少女たちは電車に乗らなければならない。これは時間が流れるからに他なりませんが、それでも乗れない人間が二人居ました。ばななと華恋です(あと自分から降りたひかり)。

彼女たちが電車に乗れない理由は、

【ばなな】

①何でも持っていて、何にでもなれるが故にひとつを選べないから。

②自分が唯一持ち合わせていない、純那のトップスタァへの執着心への憧憬、その感情の源泉を何としてでも手に入れたいから(純那と別れること、純那が舞台から逃げることは、自分のループの源泉となった眩しさを見失うことと同義)。

【華恋】

ひかりと運命の舞台に立ったことで、目標を失ったから。

というように色々ありますが、要するにこの二人だけがはなから電車に乗る気がなかったと言えます。よって電車のなかでも、ばななと華恋だけが仲良く話しているんですよね。

しかし他のキャラは何の疑問もなく、自分の未来に進もうとしている。これを見咎めるのがばななです。そして、自分はこの皆殺しのレヴューを、未来に「絶対に」立ちはだかる壁のようなものだと考えています。レヴューである以上、ばななが何らかの役を演じているのは確実で、それは特別映像にて言及されていた「余裕をもって歌うように」というもえぴへの指示、「なんだか強いお酒を飲んだみたい」というばななの台詞からも、「彼女たちよりずっと余裕のある成人した存在」を演じているだろうことは明確です。つまり、「(成人した)彼女たちが今後の進路で出会うだろう圧倒的才能を持った人間」を演じているんじゃないかなと。生半可な気持ちでは今後ずっと挫折を味わうだろうけれど、君たちは本当にこの道でいいのかという想いを込めてのレヴューだと捉えています。

ちなみに、このレヴューはオーディションではないというのは何度もばななから言われることですが、個人的にレヴューとオーディションの区別は以下のものだと考えています。

 

レヴュー:少女たちの魂のぶつかり合い。本音の語り合い(修学旅行の夜のぶっちゃけた恋愛話みたいなアレ)。キリン(観客)がいて初めて舞台が成立するが、これは「作品化」されることで、現実にいるオタクたちが「観て」、彼女たちに「レヴューを期待する」から「レヴューできる」という意味合いが強いんじゃないかと思う。観客が観ていない、つまり作品内で割愛されたひかりが退学してからの期間に、彼女たちがレヴュー出来なかったのはそのためだと思う。どちらかと言えば、観客より舞台少女に主導権が握られている。(そのために、本作では肩掛けを切ってもレヴューが終わらないなど、観客の想定外の動きをすることが多い。これは観客と舞台とのルールではなく、彼女たち自身のルールで向き合っているから。メタフィクションの視点)

 

オーディション:観客によって明確な奪い合いを求められたもの。観客からの要請が強いという意味で、虐げられる側の原始的な闘争。

 

つまり何が言いたいかというと、ばななの「これはオーディションじゃない」というのは、「引かれたレールの上(オーディション)を行くんじゃない」という忠告であり、なおかつ「観客が見ている限り、どのような場所でもレヴューの場になり得る(私たちはもう舞台の上)」というメッセージもあるんじゃないかと思います。決して彼女たちを悪くしようと思っているわけではないことは、噴き出る血が舞台装置であったり、その血が「甘い」ことからも明らかかと。その役割をなぜばななが担ったのかというのは分かりにくいですが、舞台に立つだけでなく制作する側の視点を持つ彼女だけが、みんなの将来への違和感に気づけたのかなと思っています。わからんけど。みんなを舞台の上で最大限に輝かせるのが、舞台制作の使命なので。

 

それぞれの舞台少女の関係性

これは各自、自カプの考察を深めるべきだと思うのでよろしくお願いします。かれひかのオタクが他カプに口出すもんじゃないですよね。(じゃあ記載をするな)

【210618追記】ネタバレが解禁されて、なんか色々オープンになってるし折角なので他のカプについても自分の考えを簡単に書いていこうと思います。

・双葉と香子

TVアニメシリーズから、香子の良さは双葉を完全に自分の僕だと思っているところにあります。そんな風に考えていて横暴でワガママだけれど、抜けているところがあるから双葉も見捨てることが出来ない、頼られると全力で答えてしまう。つまり、双方にとって別れたく気持ちがそこにかける才能と労力でまかなえているのだと思います。

で、これがただの幼馴染みなら良かったのだけれど、ここに本家やらなんやらが出てきて、彼女たちは生まれながらにして「主人公である香子」と「脇役である双葉」であることが決定付けられているということになります。そしてまた、彼女たちがこれからも幼少期のような関係を築くためには、香子は主人公であり続けなければならないし、双葉も脇役でなくてはならないのです。ところが、その主人公である香子はスタァライトにおいて主人公になれないことが露呈します。ここからずっと香子は追い詰められていて、それが爆発するのが劇場版の「セクシー本堂」です。未成年であるにも関わらず、「賭博、女、酒」という危険な香りをモチーフにして「胴元」や「ホステス」という成人(=双葉より大人である立場)になろうとする様は、まさに「主人公」の代替案として機能しているんじゃないかなと。双葉はそれに応えようと、ガチガチの初心者(あるいは童貞)らしさを演じるものの、香子自身がこうではないことに気付いています。何度も繰り返す「うっといわ」という言葉は、香子の演技に完璧についてくる双葉への苛立ちでもあり、なおかつ香子が背伸びをして無理に演じているという点から、本質から外れていることに対する焦りです(確かに舞台の上では役を演じるものですが、レヴューでは本音を、ありのままの自分を出さなければならないので)。とにかく双葉よりも上に立たなければならない、その切迫感から生まれるあの演技は格別で、時折声にでる「おい」と「おもて出ろや」がめちゃくちゃにいい。ここに香子の焦りの全てが詰まっていると自分は考えています。

で、その後のデコトラについては、強くてでかいトラック(香子がもつ才能や努力、家柄)だけでは飽き足らず、過度な装飾(無理矢理の背伸び、双葉への威嚇行為)を行ってきた香子の存在がしっかり反映されているのかなと。そして双葉のデコトラもまた、香子に答えるかたちでしっかりデコっているのではないでしょうか。いずれにせよ、二人で乗っていたバイクから更に強くなり、なおかつ二台に別れてしまった点でしっかりと対立が描かれているように思います。最後の桜に包まれるシーンはアニメで香子が舞っていたシーンにも描かれている香子の輝き。京都という舞台そのものを演出していて、二人だけの落ち着いた子供の頃のような空間を形作っています。今度は双葉が香子にマウントする(乗る)という構図はこれまでの上下関係の反転には見えますし、バイクの主導権が双葉から香子に移ったという事実も興味深いところです。この描写によって香子が救われるようになったのは言うまでもなくて、なぜなら「主人公」「双葉に運転させる」「双葉より上でなくてはならない」という全ての要素を剥奪されてもなお、双葉との関係は続いているからです。エンドロールのワンシーンで、ようやく香子は自身の呪縛から解放されたと言っていいのではないでしょうか。

「主人公と脇役でなくても、続く関係がある」というのがふたかおのレヴューのテーマだと考えています。

 

まひるとひかり

アニメで描かれていたまひるヤンデレ?要素への反省かなと好意的に解釈することもできる演出でした。岩田 陽葵さんとまひるが好きな野球が舞台になっているのは言うまでも無いですが、光の陸上競技場(対決を前提とした舞台)から、MOTHER2のムーンサイドを彷彿とさせるような闇(追い詰めることを前提とした舞台)に切り替わる恐ろしさが良かったです。で、この舞台については正直わかりやすいのであまり語ることはなくて、そもそもお互いが好きなスズダルキャットとMr.ホワイトはライバルですし、華恋をめぐってもまひるとひかりはライバル?ですしと対立することが多かったものの、作品内では対決されることがなかった鬱屈をここで発散するかたちになりました。結局本当にあの闇の舞台は演技だったのかという話になると、「演技はまだまだだけど」というまひるの口上から「演技が苦手=今回ひかりに向けた悪意も本意」という見方もできるのですが、アニメの大前提があるように、自分の光だった(あるいは歪みそのものとなった)華恋とのレヴューで完全に愛情に似た感情は解消されているわけで、そこからまひるの最大限の良さである「誰かを笑顔にできるような舞台少女に」というテーマに落ち着いたはずです。よって、今回のレヴューの見所は、ひかりと華恋を笑顔にするために自らを悪役に落とし込むことができるようになったまひるの演技力の向上なのではないでしょうか。

最後に、ひかりが零した「華恋のファンになるのが怖かった、だから華恋の側から去った」という言葉から、後述のかれひかの真の対等な関係とは何かという議論に繋がることだけ触れておきます。

・純那となな

ばななの純粋な子供の執着が本当に恐ろしい、という話でした。これは皆殺しのレヴューから繋がりますが、純那に大人になれと訴えながら、自らがいちばん大人になりきれていないという矛盾を抱えている点で、ばななはかなり魅力的です。ばななはしきりに純那に切腹を命じますが、それも純那への憧れがあってのもので、「才能が無い哀れな存在、なのにめちゃくちゃトップに貪欲になれるのは何故?どうしてそこまで本気になれるの?」というのがばななの知りたいところであり、純那に執着する所以です(文字に起こすだけで怖すぎる)。とにかく、全てをもっているばななが唯一もっていないのが純那の「勝利への貪欲さ」だった。そしてその貪欲さは閉じた時間のなかにあるのではなく、開けた時間のなかにあります(閉じた時間では成長ができないので)。つまり、閉じた時間のなかにいたばなながこれから開けた世界に出るに当たって、純那の「勝利への貪欲さ」は鍵となるはずだったのです。これがないと、ばななは開けた世界に出ることができない、そう言ってもいいでしょう。しかしながら、自分がその鍵を手にする前にひかりによって閉じた時間から追い出され、ばななは不完全なまま開けた世界に追い出されます。しかも、その鍵を手にしていた純那も自身の手から鍵を見失いつつあるという事実。ここにばななはひどく落胆し、「自分と違ってその鍵を手にしていたのに、なぜ見失ったのか。これ以上醜い姿(つまりばななのような存在)を見せる前に死んでくれ」と純那に言うわけですね。もちろんばななの刀で。めちゃくちゃエゴが強い人ですね。で、ここまで書くとじゅんなななの未来は薄暗いのかと思わざるを得ないのですが(なぜならこの関係性はテレビからは読み取れないものであり、私たちはじゅんなななを理解できていなかったという虚脱感に襲われるからです)、個人的にはまだまだやれる(?)と思っています。なぜなら最終的にひかりに敗北したばななを慰めたのも、純那に失望していたばななを改心させたのも「純那自身の言葉」だったからです。純那には言葉でしか舞台や役柄を把握できず、演じれない部分があるとは思うのですが、その彼女が自分で紡いだ言葉にばななは強く惹かれてしまうわけで、「殺してみせろよ 大場なな」の口上を受けて、ばななは純那を殺せなかった訳ですよね。本気で切腹しろと思っていたうえに、その実力があってもなお純那の圧倒的なキラめきを前にして敗北を悟るばななの姿、そして別れる二人の姿を見ると、ばななはずっと純那の持つ言葉の力を切望することになるんじゃないかなと考えてしまいます。もちろん、舞台少女なので常に変化するものだとは思いますが(それにしても、あれだけの失礼な感情を向けられてなお普通にばななと接することができる純那、あまりに心が広すぎるのでは?)。

・真矢とクロディーヌ

上位存在同士のバトルで、美しいという言葉以外にないのが面白いところですよね。真矢の「何にでも演じることができる器=本当の自分がない」という構造は、某スクールアイドルの演技をする個人回でも見たのですが(→)、スクールアイドルでは「ない自分」を肯定するかたちで話が進んだ一方で、スタァライトではさらに推し進めて「そんなわけないでしょ、いるから本当の自分。私には見えているから」と指摘していたのが良かったですね。ない自分などなくて、演技をする以上必ず核となる自己は存在している。これには、クロディーヌがずっと追いかけていたものは何なのかという問題が付き纏ってくるので、クロディーヌが真矢を追い越える存在としての自己を保つための苦し紛れの弁明というふうにも読み取ることができるのですが、真矢がその指摘によって本当の自分を器のなかから零してしまう点からも、やはりクロディーヌには真矢の本質(魂)が見えていたのでしょう。鏡をモチーフにして、自分しか見ていなかった真矢がその鏡を割られることで否応なくクロディーヌを目にせねばならない、しかも額縁もついていて尚更美しく見えるという圧倒的な映像の情報量には感服する他ありません。

また、魂を求める悪魔を「魂はない」という詭弁で出し抜いた真矢」、その魂の欠落をあると指摘して舞台のルールを転覆して真矢を出し抜くクロディーヌ……というように、いたちごっこの如く互いを出し抜けたのが今回の見所でしょう。つまり、これまで真矢に出し抜かれてばかりだったクロディーヌが(TVアニメでの「フランス語喋れたんかい!」がまさにそれ)、ようやく真矢を出し抜けるようになったところに成長が描かれているのです。

本当は舞台そのもののテーマについてももっと詳しく述べたいのですが、モチーフ(らしい)であるゲーテの「ファウスト」を自分は恥ずかしながら知らないので、下手なことを言う前に真矢クロについては筆を置こうと思います。

・華恋とひかり

これについて本当に語りたかった。

かれひかの関係性が最初から明らかになった点がとても良かったですね。

ごきげんよう」と特別な挨拶をするひかりと、返せない華恋。快活に遊ぶひかりと、引っ込み思案な華恋。ここで既に二人の違いが描かれています。つまり、特別な存在であることを「演じよう」としているひかりと、演じなくても特別である華恋が出会ってしまったのです。

カスタネットを叩くシーンは象徴的で、正反対であり、人とも溶け込めなかった華恋の「独特のリズム」を、特別でありたかったひかりが奪います。そういう野生の本能に基づいた「奪い合い」がかれひかの根本にあることを、続くお弁当の奪い合いが補足しています。華恋がようやくキラミラを通してできた友達も、ひかりは自分の趣味の世界に誘うことで、華恋の人間関係の全てを奪うところも注目したいところ。つまり、かれひかの出会いは「奪い合い(正確にはひかりから華恋への強奪行為)」から始まったにも関わらず、華恋は奪い合うレヴューを忌避しているところに歪さがあるのです。華恋の頭に最初から「奪い合い」の概念はありません。野生的ではない華恋は、ひかりからの強奪を「奪われた」とは考えておらず、自分もひかりのものを奪うことで、結果的には「互いに差し出した」のだと考えているのです。この見かけ上の「交換」こそが運命だと華恋は信じているのでしょう。

一方で、ひかりは小さいのに舞台が好きだという特異性に酔いながらも、みんなと違う華恋に出会った頃から憧れ・敵対心を持っており、ずっと華恋の特別を自分のものにしたいと考えていたのです。自分が華恋よりも優位に立ちたいというひかりの感情は、漫画スタァライトオーバーチュアでも描かれていたはずです。ひかりは華恋と二人きりの同じ舞台で勝負をしたくて、だから華恋を自分の舞台に引き摺り込んだのでしょう(手紙では華恋ちゃんと書いていますが、その手紙を渡した瞬間にひかりは華恋を呼び捨てにする。これは華恋をライバルだとみなした合図だと考えて良いはず)。けれども、ひかりにとって舞台は自分を着飾るためのファッションでしかなかったわけで、本気ではなかったはずです。しかし、華恋はそれを真に受けます。対抗するかたちでひかりも舞台に立ち、互いに舞台に上がった二人は、互いに舞台以外の関係全てを燃やし尽くすことで舞台少女として生きることになるのです。

アニメでも、この奪い合いの順序が貫かれています。アニメ10話の終わりにひかりに肩掛け(キラめき)を奪われてから、最終話で華恋はひかりのキラめきを奪います。二人は奪い合うしかないのです。しかし、この奪い合いが見事に隠蔽されていたのが二人の髪飾りで、野生から遠く離れた約束のもとで、お互いの運命の舞台へのチケットとして渡し合うことで、仮初めにも「奪い合い」を「交換」だと(互いに)信じることができる。この人間の醜さを美しさで覆い隠す盲信こそが華恋の強みであり、アニメ最終話でのスタァライトをリライトする源泉でもあり、ゆえにその隠蔽の露見は、華恋がもっとも恐れている部分でもあるのです。ひかりは華恋の普通の人生をすべて奪いましたが、華恋はひかりの普通の人生をすべて奪えているのか、という疑心に苛まれます。そうでなくては、二人の約束は交換ではなく強奪になる。人間の醜い部分に触れることになる。華恋が自分ルールを作ってまでひかりのことを知りたくなかったのは、ひかりとの約束が反故にされているのではないかという恐れは勿論、自分自身の醜さとも向き合わなければならないからでもあると思うのです。

よって華恋が運命の舞台を手にし、次の願いを抱く時に想像したものには、何一つ野生でないものはあり得ないのです。華恋が「交換」を願う時には、ひかりから奪われないといけない。しかしひかりは敢えて華恋を突き放し、むしろ華恋から「奪われる」ように誘い込む。ここはめっちゃ簡単に言うと、「昔からずっと私から誘ってばっかりなんだけどさ、たまには華恋ちゃんから誘ってよ」ということになります。自分からも奪わないとダメなんです。観客の目がある以上、舞台少女はトマトを食べて初めて自らの飢えと渇きに気付きます。ふたりにおいては、自分たちの行っていたことが「交換」ではなく「強奪」だったと自覚せよ、ということになるのです。しかし、華恋はひかりがあまりに大切で、ひかりから何かを奪うことなんて絶対にできませんでした。自分の醜さを受け入れることができなかったと言っても良いでしょう。結果として華恋は野生になれず、舞台を降りるしかなかったのです。

なので、その解決策としてひかりが考えたのが、華恋とひかりの奪い合いをリセットする試みです。「ひかりが奪い、華恋が奪い返す」。この前提を覆すために、まっさらな舞台少女としての華恋(このあたりは、ラストシーンの無傷なのに服だけが破けている華恋の状態とも一致します)を再生産するために、ひかりはスタァライトのフライヤーを折った手紙を燃やし、それによって生まれたすべての思い出(強奪ではなく、交換だと信じていた幻想)も燃やし尽くす。かつて二人が普通の人生を燃やしたように退路を断たせることで(強制的に電車に乗せることで)、華恋は初めて「奪い合う野生の舞台少女」として生まれることになったのです。

華恋の最後の「私もひかりに負けたくない」は、かつてひかりが華恋をそう呼んだように、ひかりを運命の相手ではなくライバルとして認識した瞬間に他なりません。ここでようやく、運命という幻想で無理矢理ひとつになっていた二人が分離し、華恋はひかりを一個人として、「強奪」の対象として見ることができるようになったわけです。ひかりとのキラめきの共有から、奪い合いへ。自分が持つ醜さから、目を逸らさずに直視することで、華恋はようやくひかりに向き合うことが出来たのでしょう。

 

わかりますか? ここからが二人のスタートなんです。ここからようやく、本当のかれひかの関係が築かれていくんです。

あまりに良すぎるだろ……。

 

【210702追記】

ふと思い出したのですが、上部が溶けていた東京タワーについて全く触れていなかったので追記します。自分のなかでは、あれは幼少期の思い出への疑いの目だと思っています。例えば幼い子が東京タワーを見上げてもてっぺんまで見えない(全体像ではなく一部しか見えない)ように、幼少期の彼女たちは自分たちがしていることが運命の交換(一部)であり、奪い合い(全体像)であるとは気づいていない。または、自分たちが行っているのが約束(その象徴が東京タワー)であると思い込んでいるのに、その先端は空に溶け込んでいて、本当に彼女たちが東京タワーのもとで約束できていたのか怪しい、実は約束ではなかったのでは、という視点が投げかけられているのだと思います。追記終わり。

 

舞台少女の卒業とメタフィクション

最後に触れるのがこの箇所です。かれひかが最後に相対し、こちらに向かって語りかけるシーン。観客の存在を初めて認知し、華恋が自分も舞台少女であること(醜い存在であること、舞台の上、あるいは「飢え」に立っていること)に気付きますが、あれはこちらの観客の存在を認知し、自らがひとつの「役」であることを理解した瞬間だと言ってもいいでしょう。ようするに、「自分では舞台に上っている」という認識がなくとも(あるいは上るべき舞台がない状態でも)華恋は舞台に上らされるのです。観客がいるとはそういうことに他なりません。

今回の作品では、多くの舞台少女がこの構造に(観られることで舞台少女となる。少なくとも映像化されている本作の1:59:59のなかのどのシーンでも彼女たちは舞台に上っている)気付きました。そして、誰もがそれを逆手に取るように、規定の路線から逸れるような行動を取っているように思います。既に少しだけ触れましたが、これまで表現されなかった血が出る(ように見える)レヴュー、肩掛けが落ちても終わらないレヴュー、新たな変身バンク、完成されない舞台脚本。これまで負けていた少女たち(双葉、まひる、純那、クロディーヌ)の勝利だって決定的な要素です。

いずれの要素についても、これまでの「少女☆歌劇レヴュースタァライト」からズレることで、徐々に別の作品になりつつある、というように言ってもいいんじゃないかと思います。この作品は星翔の九九組の卒業公演であり、未来に新たな劇団に属するまでの間隙に存在するものだという認識です。作品を俯瞰し、少しずつ作品の殻を破っていくことで新たな舞台少女になる。

九九組はみな、最後に肩掛けを外しましたが、それはアニメ「少女☆歌劇レヴュースタァライト」という舞台から降りることを意味します。彼女たちはこの作品から離れ、別の舞台に上ることになるのです。

ただ、華恋とひかりはまた少しだけ様子が違っていて、これまで付けていた髪飾り(運命の舞台へのチケット)を頭から鞄に付け直しています。これは九九組の肩掛けとはまた違った意味合いで、恐らく身体から離れた場所に(しかし自分の所有物の範囲に)置くことで、かれひかは適当なお互いの距離を見つけたと言っていいんじゃないでしょうか。自分たちが「スタァライト」という運命のなかで完全に同一個体である、ということを信じていた二人が、互いに一個体であることを認め、ライバルとして(あるいは何らかの感情の対象として)向き合うようになる。ここにかれひかの成長が描かれているように思います。

 

 

まとめ

かれひかは神だし、劇場版スタァライトはめっちゃ神。

何度でも観に行こう。自分の住む県ではやっていないけれど。

以上。何か矛盾とか考察として粗いところがあれば言ってください。

最近読んだ本の感想書くます

無事に金曜日の労働も終えたので自分と向き合う時間が来た。まこと素晴らしいことである。今回は最近読んだ本の感想を地道に書いていく。暇なので。

 

アゴタ・クリストフ悪童日記

読書やってる人間からすると今更かよ感あるが、今更読んだ。面白かった。ひとつひとつの断片(日記)から双子の性格が明かされていく。どこまでも論理的で感情を排した彼らが、暴力もひとつの手段、あるいは現象として取り扱い、死や危険と結びついている事実を論理だけで理解しているからこそ生まれる行動の数々が魅力的だった。今が苦しいなら死ねばいいというのはその通りだし、自分たちが生き残るためなら「愚かな」誰かを殺してもよいけれど、不当に誰かの心を傷つけるのはダメなのだ。このあたりの歪んだ倫理観を「歪んでいる」と思う大人にはハッとする物語なのだろうが、自分にはまあそれはそうとしか思えなかったのでそういう新鮮さはなかった。周りの大人や弱者である子供と歪んだ倫理観で対等にやり合い、それが実際に通じている(あるいは打ち負かす)のがこの作品の魅力だと思う。あと人称による設定もかなり良くて、それが物語の結末を一層面白いものに仕上げている。面白い海外文学。続編も図書館にあったら読みます。

 

②法月倫太郎『ノックス・マシン』

表題作の面白さはいまいちであり、そこまで面白くはない。『引き立て役倶楽部の陰謀』もミステリに熱心な読者でなければ良さは全く伝わらないと思うのでパス。

傑作は『バベルの牢獄』だろう。間違いない。この発想はもはや異次元のものであり、SFとミステリの類い希なる融合を示している。ここまで作中のギミックと物語が合致していて、また読後の恍惚感をドクドクと脳内に吐き出すドラッグを自分は知らない。法月倫太郎の名を世にとどろかせ、文学の歴史に残さんとする大傑作。是非読んで欲しい。最後の作品は面白くなさそうなので読まなかった。

 

米澤穂信さよなら妖精

ユーゴスラヴィアから来た少女にまつわる日常の謎を元に話は進むが、正直言ってミステリとしていまいちというか、これは自分がミステリをよく読んでいないだけだと思うが、「しょうもねえな」と思うネタばかりで面白くはなかった。が、ジュブナイル政治小説として読むと楽しめた。日本人が政治に無関心でいられるのは日本が平和だからであり、そうでない人々は政治と生活が密接している。それがある人の生き様にもなり、使命にもなる。ここらへんの熱意の差を自分の青春の空白を埋める何かと勘違いした主人公の悲しい物語である。このお話に若いうちに触れることができた学生はそれなりに幸福な人生が歩めると思うのでオススメです。政治に無関心な非モテの大人が読むと、甘い青春と政治への真摯な姿勢のダブルパンチを食らって惨めな気持ちになるのでオススメしません。僕は青春パートにちょいちょい苛つきましたが(自分はもうこういうのが無理なのかもしれない)面白かったです。

 

④ジャン二・ロダーリ『猫とともに去りぬ』

自分の人生でベスト級に好きな作品。ロダーリのギャグセンスと自分の相性がめちゃくちゃに良く、ことあるごとに「は?」と声に出して笑わずにはいられなかった。かなり短い物語が詰め込まれてるので非常に読みやすいとは思うが、ひとつひとつの物語が珠のように美しく面白いので、舐めるように読んで欲しい。ギャグセンスが壊滅的に合わない人にとってはクソつまらん本になり得るが、そうでないことを願いたい。なんか知らんけど人間は猫になったり魚になるし、ピアノを武器にするガンマンはいるし、バイクと結婚しようとする男も出てくる。支離滅裂な物語に間違いないが、そのどれもにツッコミは殆どなく、様々な生き方が肯定されてめでたしめでたしになる。まさに童話のプリパラ。

 

泡坂妻夫『しあわせの書: 迷探偵ヨギガンジーの心霊術』

法月倫太郎『バベルの牢獄』と並べられていたので拝見。なるほどなかなかに面白い本だった。ネタバレはこの本の未来の読者にとって良くないので詳細は省くが、自分としてはミステリも面白かったし謎の使い方も本であることの意味も追求している、非常に素晴らしい作品だと思った。表紙のデザインが安っぽく「騙されたかな?」と思うがそのあたりも含めて傑作。

 

倉阪鬼一郎『内宇宙への旅』

こちらもネタバレができない、バベルとしあわせの書の系譜の作品。何が面白いんだと思っていたが、なるほど気がついてからその労力に度肝を抜かれる。ただ、しあわせの書よりしっかり手は込んでいるものの、その努力が作品内の構造やモチーフとそこまで結びついていないのが残念。ものすごい本ではあるのだけれど、自分としてはいまいち推しきれない作品だった。

 

以上

社会人になったので寄付始めました

夏になるとそこらの店で冷やし中華が始まるように、社会人になると寄付を始める人間が増えるものだと思っている。知らんけど。

 

自分は偽善者なので、ホームシアターを構築して素晴らしい映画を観ていたり、図書館で借りた素晴らしい書籍を読んで満たされている時、ふと自分の恵まれた環境を客観視して、頭の隅にいる貧困家庭を思っては申し訳なく思う時がある。まあこの癖は常に発動する訳でもないし、申し訳ねえな、ごめんなと思うくらいで別にこれといったことは何もしないのだが、居心地が悪いので何かしらアクションを取るべきだなとは常々思っていた。そうじゃないと良い映画や良い本も味わえなくなる。

かと言って全く活動的ではない自分は、というより他人に自分の時間を使うのがめちゃくちゃ嫌な自分は、貧困とか虐待とかで悩んでいる子供に、できるだけ楽に、かつコスパよく支援できないものかと悩むことになる。大事なのはコスパである。

支援のコスパってなんだよと聞かれる人もいるかもしれないが、端的に言えば「中抜き」が支援のコスパを左右する。◎通とかパ◎ナとかでもそうだが、変なのが間に入るせいで送受信する関係がどこか歪になってしまうことは想像に難くないだろう。意思・報酬伝達が適切に行われないという点で、関係者は相手に不信感を抱くようになり、どちらも心にわだかまりを覚えてしまうので(中抜き以外は)誰も幸せにならない。

こういうのが「コスパが悪い支援」だということになる。

最近だと無料食堂で大量注文するフリーライダーが話題になっていたが、こういう「中抜き」が発生する支援というのは、支援側は支援している気になっているのだけれど、それ以上に心的・身体的負担が重くのしかかるうえに、必要な人たちに支援が行かないという点で歪だ。

さて、この件に言及した元支援団体代表の方がいるのだが、彼はこの方式(無料開放)は全くよろしくないと結論づけている。(いずれの方々もあまり表に出たがっていないので明言は避けます)

というのも、彼はかつて貧困家庭のために無料の食糧倉庫を解放していたのだが、いつしか無料だということを聞きつけたフリーライダーが大量発生したせいで 、支援すべき人と支援しなくても良い人を「選別する」必要が生じ、その責任の重みに堪えきれず鬱になってしまったのだ。彼は無料食堂とまったく同じ轍を既に歩んでいたのである。

実は自分は食料倉庫を開放していた彼の活動に賛同して、たった一度だけ米 5kgを送ったことがあるのだが、ちょうど自分が支援した時あたりからフリーライダーが大量発生したらしく、結局その米が貧困家庭に行き渡ったのか、よくわからんけど無料だからもらっていくかというテンションの爺婆に取られたのかはわからない。

で、前者なら良いのだけれど、後者に取られた場合、自分は非常にコスパの悪い支援をしたことになる。自分は金を出しただけだからダメージは少ないのだが、実際に注文した食品を仕分け、その食品がよくわからん人々に取られていく光景を目の当たりにした彼の心的疲労はとてつもないものだろう。もしかしたら、自分は金を出して善意のある人を傷つけ、善悪の基準が曖昧な人を喜ばせていたのかもしれない。考えるだけでぞっとするが、これが「無料」食堂の構造である。

これは「よろしくない貧困層への支援」の典型例だと言えるので、無料食堂に寄付をしたいという人には再度考え直して欲しい。一度お店が有名になってしまった以上、フリーライダーは絶対に何度も沸いてくる。倫理観のない日本人の割合を、めちゃくちゃ甘く見積もって全体の0.1%としたところで、いったい何人いると思っているんだ。想像以上にやばいやつは多いよ。

 

で、ここで「じゃあどこにも支援できねえなあ」と考えるのは違っていて、やっぱこういうのは特定層に特化した団体に寄付するのが一番だと思う。結局そこにいくんかいという感じだが、少なくとも「自分の時間は大切だから絶対に誰にも譲りたくないが、金をやるくらいならまあいいかな」と舐めたことを考えている自分のような人間にとっては、寄付がいちばんコスパがいいのだ。時間を払わず、金を払うだけで支援することになるので。

そんでもって、無料食堂の件を踏まえて、寄付先にもコスパの良さを求めるなら、確実に支援先に届く支援団体に寄付した方がいいです。なので、まずは自分がどういう層を支援したいのかを明確にして、そこに特化した団体を探す必要がある。

自分の場合は、貧困家庭の子供とか虐待される赤ちゃんがマジで可哀想だなと思うので、そういう団体に寄付することにした。だって可哀想じゃないですか?貧困家庭の子供とか虐待される赤ちゃん。普通にめちゃくちゃ可哀想だと思う。

というわけで、

①フローレンス 

赤ちゃんと母親の関係に焦点を当てている団体。子供の育児環境と母親のメンタルは非常に強い結びつきがあると思うので、良い路線を攻めていると思います。

月額1500円の寄付。

florence.or.jp

 

②カタリバ 

主に貧困家庭の子供への支援を行う団体。やや自分の思想とズレている気もするが、別に貧困に限らず困った子供のためになるなら何でもいいやと思うので、ここでも良いかなと。

月額2000円の寄付。

www.katariba.or.jp

 

というように、上の団体に計3500円/月の寄付を行うことにした。別にそんな大きな金額じゃなくて、競馬で2回くらいスった程度の金額だと思う。まあ年額にしたら47000円とそれなりの金額になるので(寄付は年収の1%くらいが良いらしく、明らかに自分はオーバーしている。そんなに高収入ではありません)、こうして観ると少なくはないかも。

ただ、翌年からは税金の控除も受けられるはずなので、実質支払う金額はそこまで大きくならない。それでも支払った分のお金は支援団体にいくので、結構コスパがいいんですよね、やっぱり寄付は(節税として)最高だと思うので、みんなも今のウチにやっておいた方が良いです。ウマ娘に続いて、今度は「寄付娘」がくるかもしれないから――。

 

最近触れた作品の感想(ポケスナとかピンチョンの49とかレイ・ハラカミとか)

あまりに更新していなくて申し訳がないので(別に義務感を覚える必要はないんだけど)、なんか雑に書きます。感想とかを……。

 

◎ゲーム

①NewポケモンスナップNintendo Switch

マジで面白い。最高です。

操作性:画質がかなり良くなったため、画面を回転させると酔いやすい。発売当初のドラクエ8とか最近ではOculusでも言われてたことですね。まあこれは慣れ。ただボールがあてづらいのがかなり辛くて、目的の位置にあてる行為をかなり要求されるゲームではあるので、ゲーム下手くそ君にはちょっとイラポイントがたまるかもしれん。まあそれを上回る面白さはありますけどね。

ゲームシステム:写真の講評については、オーキド博士のあの声が好きだったので残念だったのですが、☆1~4の評価、金銀銅プラチナ評価を設けたことで写真の取り方に一気に奥行きが生まれてやりこみ要素がアップしましたね。良いと思います。ただ一度に1枚の写真しか提出できない点でややイラポイントが溜まる。☆の数ごとに1枚なら良いのだけれど、これでは最低どのポケモンとも4回は向き合わねばならないので、ちょっとねえ。めんどい!クエストとかいうやつも増えたしな……やることいっぱいありますよ。自分は全部をやってはいませんが。

それはそれとして、個人的によかったのが「ふわリンゴ」の扱い。前作同様ポケモンにリンゴを投げることができるのだが、今回は「ふわリンゴ」としてポケモンに当たっても痛くないよという説明を加えることで(前作もあったっけ?)ポケモンに感情移入しやすいオタクにもきちんと配慮できている。こういう細かな気配りはいいですよね。

グラフィック:神。ポケモンの実在性がすごい。ただこれ64でも十分に感じられていたので、当時の64のグラでも世界観を構築することは出来ていたんだよなと思うと、案外画質って世界観の精密な構築に必要とされないのかもと思ったり。

 

総括:かなり良かった。かなり前から欲していたゲームだったが、期待以上の面白さで大満足です。とはいえ上記の理由によりやや時間が取られ、下手くそな為にややイラゲージも溜まるので纏まった時間がないと取り組みにくいゲームだと思います。リンゴやオーブを投げるのが巧い人には楽しさしかないと思う。自分の腕に自信のある方は是非。

 

 

②神田アリスも推理する(Nintendo Switch

el-dia.net

これね~~~~幼馴染百合が好きな人には本当にお勧めできません。

上から目線かつFF外から失礼して評価させていただくと、

(満点は☆5)

推理ゲーとしてのロジック ☆2

百合ゲーとしての文章表現 ☆4

全体的なシナリオ ☆3

キャラの可愛さ ☆5

人道性 ☆2

くらいの作品ですね。まず悪いところから書くと、愛の定義が雑すぎる。これにつきます。

まずみなさんに見て頂きたいのはこの発売記念壁紙なのですが(上に貼っている作品ページに飛べばDLできます)、これ何しているかって言うと、主人公のアリスちゃんが幼馴染の女の子の脱ぎ捨てたジャージを見つけて腕を通しているシーンなんですね。

f:id:negishiso:20210505133223p:plain

この辺りの表現がかなり良くて、幼馴染百合のオタクとしては最高に盛り上がっていたのですが、まあそこからなんやかんやでアリスちゃんは「その人のことを考えて下腹部が(性的に)熱くなることが真の愛なのでは?」という悟りを開くんですよね。つまり性的な後ろめたさを感じる相手こそが真の恋愛対象って話になるんですが、でもそれってアリスちゃんがこうして幼馴染のジャージを着て喜んでいた時も感じていた感情じゃん、それに似た興奮は幼馴染にも覚えていたじゃんって感じですんなりと納得できないんですよね。

まあその後についてはネタバレが過ぎるのでアレですけど、幼馴染百合が好きな人もそうでない人も、アリスちゃんの愛の気付きの論理の矛盾に眉を顰めることになるんじゃないかなと思います。勘違いしてほしくないのが、別に自分は幼馴染百合じゃないからキレているわけではなく(そりゃ勿論幼馴染百合なら最高ですけど)、思わせぶりな幼馴染百合展開を進めておいて、雑な論理で急に方向転換するのは辞めろっていう話ですね。だって途中まで普通にアリスちゃん、幼馴染を恋愛対象としてして見ていましたからね(少なくともそのように見えてしまう)。なんだかなあ。

 良いところは、作者の文章力が高いところ、声優が良いところ、キャラがめちゃかわいいところです。秋をテーマにした作品ということもあるのですが、それに関連した言葉選びが巧いのと、女の子の性的な恋愛感情の描写がかなりうまい、少なくとも男である自分にも感情移入をさせている、という点でかなりの技術はあるのだと思います。なので自分はこのゲームを頭ごなしに否定はできないです。

幼馴染百合が好きじゃない百合オタクには、最高のゲームになるかもしれん。自己責任で。

 

 

◎小説

トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』

かのトマス・ピンチョンに初めて触れてみました。どんな文章を書くんだろうと思っていたのですが、想像していたよりずっと繊細で、それでいて緻密に計算し尽くされた文章の設計士という印象を受けました。正直中身が詰まりすぎていて、まともな感想は書けそうにないのですが、(本当の)情報から隔絶された人間が、時折顔を見せる思わせぶりな「啓示」に導かれ、陰謀論という秘められた道を通り抜ける展開はめちゃくちゃ面白いですし、ところどころの文章表現が良すぎて笑ってしまうこともありました。宗教的な啓示を受けるシーンとか絶品で、ドストエフスキー『白痴』の死刑執行時の視点の描写に似た、自分の五感に文字が入り込む驚きがありました(ぼくは素晴らしい文章表現の引き出しをこれしか持っていません)。一番印象に残っているのは、ホテルでスプレー缶が飛び回ったり、メッガーとバンドの演奏を聴いたりするあの辺りかなあ。あそこらへんは研ぎ澄まされた(先鋭的な?)映画にしか生み出せない光景を見事に生み出しているというか、映画でこのカットが撮れたらもう大傑作確定だろ、みたいなシーンを文字で何度も描いてくれるところに魅力を感じました。

とまあ、ここまで書いたようなかたちで表面を触るだけでなく、もっと暗喩やらなんやらと考えるべき作品ではあると思うのですが、そこまでの熱意はないかな。もう十分に満足。さらに読みを豊かにしても良いのだが(それは巻末の解説で果たされているし)、この初見の読後感でも十分にピンチョンの世界の豊かさを味わえている気がするので、ゴリゴリのピンチョン有識者は気が向いたら教えてください。

 

カレン・ジョイ・ファウラージェイン・オースティンの読書会

設定は面白いのだけど、如何せんストーリーテリングが下手なのか、長編で書く内容ではないんじゃないかな~ということで半分くらい読んで挫折しました。こんなことは割と初めて(大抵の小説はつまらないと思っても最後まで読む)なのですが、映画化されていて小説よりそっちの方が人気らしいし、それで十分面白いらしいので映画を見ようと思います。感想は別記事にて後ほど(まだ観てないんです)。

 

◎音楽

音楽に対して興味がなく(というより文章や映像で手一杯)、どうしたものかなと思っていたのですが、無知なのもどうよ、まあ積極的に聞いていくしかないよねということで数をこなしていくことにしました。優しいことに、Spotify君は最近聞きがちな口ロロに似ているアーティストをオススメしてくれたので、そこから適当に選んでいきました。なんか言いたいやつだけ感想書きます。

 

Cornelius『Point』(2001)

『Smoke』かなり好き。低音と繰り返しが気持ちいいですね。こういう広義のややミニマル音楽(察して)みたいなやつ好き。終わりの海岸の音声を入れているのが秀逸で、Smokeと海がうまく繋がらないので混乱して、え、BBQとかの燃え残り?って感じになる。

Drop』も良い。このメロディ好き。

『I Hate Hate』良いですね。メタルのようでメタルじゃないギリギリの領域を攻めている気がする。こういうのを新解釈というのだろうか。違うか。

Drop Kings of Convenience mix』このミックスかなり好きだわ。聞いていてかなり気持ちいい。裏の小刻みな旋律が好き。

 

ゆらゆら帝国『空洞です』(2007)

『できない』3分ごろから間の抜けたハープのような弦楽器の音が加わってからは音楽が気持ちよくなった。そこからは好き。

『やさしい動物』かなり気持ち悪いな。声があまり好きじゃないのもあるんだけれど、音楽が非常に独特でめちゃくちゃ気持ちが悪いことになっている。歌詞も気持ち悪いのだけれど、その気持ち悪さとタイトルの『やさしい動物』の組み合わせはすごいと感じた。自分はできれば二度と聞きたくないです。

『なんとなく夢を』やっぱ自分は反復が好きかも

『学校へ行ってきます』情報が非常に混線している。歌詞と音選びに一体感を感じられずに訳の分からんことになっている。端的に言って耳障りで、せっかく良い歌詞なのに非常に勿体ない。俺だけなのかな。ひとつの曲として聞いた時の良さがわからん。

『ひとりぼっちの人工衛星』このアルバムのなかでは二番目に好き。人工衛星というイメージと曲調、歌声がマッチしていて最高に気持ちいい。歌詞はよくわからんが、メロディとの親和性が高いので好物です。

『空洞です』いいですね~。一番これが好きだ。音楽が良すぎる。空洞のものを叩く音が仕組まれているのが楽しいし、全部の音の組み合わせがめちゃ自分好み。こういう曲を大量に作って欲しいのだけれど、『やさしい動物』とか『学校へ行ってきます』とかの方が割合としては多いのだろうか。声の癖が強いような、あえて気持ち悪く歌っているような、結構際どいところを攻めているように思うので、そこと曲との親和性をどう考えているのかが気になりますね。

 

くるり『TEAM ROCK』(2001)

ワンダーフォーゲル』楽しい曲ですね。

『永遠』かなり良い曲。音楽が好きです。失礼かもだけど、歌詞は意味ではなく音として聴くと良い感じですね。

『ばらの花』なんとなくRADっぽいなあと思う。RADの方が後だろうけど。新海誠のアニメーションで使われてもおかしくないなあと思う。音が良い。

 

Rei Harakami『[lust]』(2005)

『joy』いいですね。落ち着くし楽しい。

『lust』これも好き。浮遊感、水のなかの反響を思わせる音の微かなブレ?が心地よいと思う。

『grief & loss』3分前後から入ってくる音楽、その後の音楽がかなり好み。

『owari no kisetsu』本当に天才だ!良すぎるだろう、これは流石に。

『come here go there』5分以降の気持ちよさは異常。なんだか泣きそうになってしまう。やばいな~。

 個人的な収穫は、Rei Harakamiという天才の存在を知れたことと、ゆらゆら帝国とかいうヤバい奴らを敵として意識したことですね。

 

以上。