新薬史観

地雷カプお断り

『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』は百合

f:id:negishiso:20210924045052p:plain

このたび『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』をクリアした。

自分がプレイしたのはSwitch版なので、HDの方。HDが何の略称かは分からないが、きっと悪い意味ではないのだろう。

 

触りとして、購入した経緯から。

自分の『ゼルダの伝説』シリーズへの信頼感は、『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』(以下:ブレワイ)によって形作られた。その感想は下に記しているが、見返してみると想像以上にブクマが付いていて驚いた。これは間違いなくこのゲームの力が持つ力に依るものであり、数多くの人が同様の感想を抱いてくれたのではないかと想像する。

negishiso.hatenablog.com

 

スカウォのリメイク(HD)が発売された当時は、まだブレワイの余韻に浸っていた。そのノリでスカウォを購入しようと思っていたのだが、知り合いの有識者から「その感覚で行くとちょっと困惑するかもしれない」という意見を頂いた。

というのも、これまでも十分ネームバリューがあった『ゼルダの伝説』ではあるが、それを一気に大衆にまで押し広げたブレワイは、そのシリーズから見ると異端の存在に当たるからだ。

これは薄々感じていたところでもある。

プレイ済みの時オカとスカウォのみから判断するに、『ゼルダの伝説』はダンジョンを主な舞台とし、謎解きとアクションを中心に展開するゲームである。それに対し、ブレワイは大自然を主な舞台とし、その散策を中心に散策しながらも、たまの謎解きとアクションを楽しむ作りになっているのだ。

つまり、舞台が閉塞的な空間から開放的なものになっているところに転換点があり、これは作品中の空気感にも直結する。大自然の息吹を楽しみたい人の魂は、ブレワイの続編によってしか鎮魂されないのである。*1

そういうことだから、ほぼ全てのゼルダの伝説シリーズにブレワイを求めると、これじゃない感に苛まれるのである。

それを踏まえた上で、知り合いからは「是非マスターソードの始まりの物語を」と後押しを受けた。スカウォをやれば作品中に出てくるマスターソードの出自を知れるという。

悩んだ。正直言ってマスターソードには興味がなかったからだ。

自分が好きになったのはブレワイの大自然であり、100年の時をかけて紡がれる勇者周りのありふれた、そして濃密な人間関係であり、プレイすることによって自己が徐々に勇者と一体化していく恐ろしさである。マスターソードは引っこ抜くのにめちゃくちゃ力(ハート)が要るただの強い剣だった。強い剣の出自にそこまで乗れるかと言うとNOだ。

自分が煮え切らない態度を見せたこともあり、ゲームかつ自分の有識者でもある彼は追撃の一言を放つ。

「かなりがっつり、幼なじみの物語だよ」

購入を決めた。自分はそういう人間だから。*2

 

長くなったが、以上がスカウォの購入経緯である。

そして結論から言おう、『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』は百合だ。

彼は「幼なじみの物語」だと評したが、自分はそれよりずっと「百合」のウェイトが高いと思う。マスターソードの出自も大事だが、それより大事なものがここにある。

 

というわけでネタバレを極力回避しながらも、本ゲームの感想に入りたい。

個人的に感動した点は、キャラクターが自身の運命を受け入れる姿勢についてである。たとえば、現実ではいまの人類に「運命」を見ることはできない。可視化されればまだいいが、不定形のくせに「お前は一生何者にもなれないし、孤独死する運命だよ」と街角の占い師から将来の歩みを押しつけられれば誰でも「科学的エビデンスが欠如している」と突っぱねるだろうし、もし藤井聡太三冠の脳を多重連結した有機連結生理学コンピュータが「ピピー!あなたの人生はあと3手で詰みます」と宣告したとしても、「いや、コンピュータの言うことなんて当てに出来ん」と耳を塞ぐだろう。

要するに、おおよその人には「運命」なるものを受け入れる下地はないはずなのだ。少なくとも自分にはない。

しかし、このスカウォの物語では異なる。登場人物は、みな見えないはずの「運命」を信じ、自らの意志をそのかたちを取らないもののまえで屈服させるのだ。もちろん人の意志は生育環境にも左右されるから、空に孤立したスカイロフトという小さな島で生まれ、戦争も知らず口伝による物語や音楽が国民の精神をかたちづくっていることを考えると、スカウォのキャラクターに「物語」のかたちをとった「運命」を受け入れる下地はあると言えるかもしれない。

ただ、それが「自分の望むかたちと全く異なっていたら?」

バドとインパというキャラがいる。彼らは自らの運命を受け入れる潔さにおいて、ゼルダとリンクの比にならない決意が必要となった。

バドとはジャイアン的なポジションの悪ガキである。幼なじみとして既に出来上がっているゼルダとリンクに一方的な嫌がらせを行う、わかりやすい「嫌なヤツ」だ。

f:id:negishiso:20210924055539j:image

ただ、リンクとバドの両方がゼルダの尻にひかれているものだから、大抵諍いはゼルダによって治められる。
f:id:negishiso:20210924055555j:image

雰囲気からもわかる人にはわかるように、バドはゼルダのことが好きである。好きだから幼なじみという関係のリンクに腹が立つし、なにかと嫌がらせをして、是非ともゼルダにいいところを見せたいと考えている。

この日はバドにとって決定的な日で、相棒の守護鳥(ロフトバード)に乗り、その操舵(操鳥?)技術を競うコンテストである『鳥乗りの儀』が開催されることになっていた。優勝者には、今年の巫女に選ばれたゼルダお手製の賞品が渡される。絶対に勝たなければならなかった。リンクは小さい頃から神の鳥とされる赤いロフトバードが守護鳥となっており、優勝確実とされている。一方で、バドの技術も低くはないものの流石に相手が悪かった。バドの勝機は限りなく低い。そこで、リンクに対してある策略を練ることとなる――。

これは序盤も序盤の物語の一部ではあるが、このようにバドは「幼なじみ」という結ばれる(べき)「運命」に屈さずに、かわいいゼルダとお付き合いがしたいという自分の意志に基づいて積極的に行動している。それ自身は昨今褒められる行動ではあるのだが、如何せんキャラデザに悪者感があるのと、リンクに嫌がらせをするという2点においてバドは善悪の二項対立の構造に呑み込まれ、否応なく悪の側に落とし込まれてしまうのだ。

そして、物語として「幼なじみ・運命」こそが善であり絶対的であるとする空気が醸成される。

鳥乗りの儀でも、もちろんリンクが勝つ。バドが欲しかったゼルダお手製の賞品は、リンクの手へと渡される。

f:id:negishiso:20210924055600j:image

それから二人は空のうえでデートをする。f:id:negishiso:20210924055544j:image

その後の展開を簡単に述べると、ゼルダがお手本のようなフラグを立てたからだろうか、二人は「運命」的なものによって道を別たれる。自分の隣にいなくなったゼルダを捜すために、リンクは旅に出る。これがプロローグの流れである。

それからは、過去の伝承や聖霊の導きに従い、自分の意志よりも過去の「誰かが決めたもの」を信じて突き進むことになる。この世界ではやはり「運命」が一定の強度を保っているのだろう。リンクはゼルダを救い出すためだけに冒険の旅に出る。ここではガノンドルフのような明確な世界的な「悪」は存在しない。ただ、ゼルダを誘拐した「謎」の存在は描かれる。この時点では、「悪」はバドのような「運命」を疎外するものだ。実際に、ストーリーでは、本来は「悪」であるはずのギラヒムは紳士的で、明確な悪意をリンクには見せない。それどころか、リンクに肉体的に接してくる点も見逃してはならないだろう。ギラヒムはちょっと悪の入ったカヲル君のような立場で、リンクの行き先を邪魔する。いや、ギラヒムのことをリンクが邪魔しているという方が正確だろう。事実、リンクの手からゼルダを逃そうとしているのはゼルダの手助けをするインパであり、リンクもギラヒムもゼルダを追っているという立場では同等ですらある。

f:id:negishiso:20210924055550j:image

さらにその関係を裏付けるかのように、インパはギラヒムとリンクに同等の敵意を見せる。本来ならば善であるはずのリンクが、ゼルダを助ける力を持っていないという点で、インパからは不信感をあらわにされるのだ。よってプレイヤー目線では、自然とインパは「悪」の立場を帯びる。ゼルダを助けているにもかかわらずだ。

このように、スカウォの世界では「運命」を信じるものが善、その動きを阻害するもの(逆らおうとするもの)は悪という構造が非常に顕著に表れている。

極めつけは終盤のバドの改心だろう。あれほどまでにゼルダを想い行動していたバドは、あるイベントをきっかけに「運命」への奉仕者となってしまう。リンクとともにゼルダを助けに行くかという選択肢を突きつけられたバドは、このような台詞を口にするのだ。
f:id:negishiso:20210924055542j:image

これは決して危険な旅に怖じ気づいた訳ではない。この表情にあるのは一種の諦念であり、リンクこそ「勇者」だと認めた物寂しさも認められる。

バドだけの話ではなく、インパも同様の状況となる。ゼルダをあれほど助けてもなお、リンクの持つ勇者の力には適わない。肝心なところでゼルダを助けることができるのはやはりリンクなのだ。バドもインパも、「運命」の存在を認めることになる。

こうしてリンクは悪を打ち負かすのだ。

 

と、このように捻くれた見方をすると純粋にスカウォを楽しんでいる人に怒られそうだが、自分にとってはどうしても「運命」は打ち負かすべき障害に思えて仕方なかった。もちろん、「運命」がなぜそれほどまでに強固な力を持つようになったのかはゲーム内でも説明がされ、納得せざるを得ない。誰しもゼルダを救うのはリンク以外にあり得ないと判断するだろう。

しかしながら、自分にとってはスカウォの「運命」はもはや「必然」の域ではないかと疑わざるを得ないのだ。この部分はネタバレになるので言えないが、ただの幼なじみで説明できない明確な意志がゼルダとリンクの間に流れている。このように「誰か」の意志が介入している幼なじみを、純粋に運命と認識するのに抵抗があるのだ。

つまり、自分は運命側に乗り切れなかった。バドやインパに感情移入をしすぎてしまったと言ってもいいだろう。「なぜ自分が勇者ではないのか」、そのふたりの想いが二つの三角形の礎となり、その上に立つのがリンクの三角である。全体でトライフォースを形作るこの関係は、感動的というにはあまりに悲しい。

そうして見ると、やはりバドとゼルダ、そして何よりインパとゼルダの関係こそがこの物語の肝であると思えてならない。インパのゼルダへの思いは特筆すべきものがある。それを語ることはできないのだが(悔しい!)、バドよりももう一歩ゼルダに近づき、関係性を深めているからこそ、諦念を越えた悔しさがきっとあるはずで、それを胸に抱いたままゼルダと寝食をともにした日々には、百合以外の何が詰まっていようか。

 

結論

ゼルダの伝説 スカイウォードソード』は百合である。

実際にプレイして「全然百合じゃないんだけど!?」とキレられても責任はとれませんが、女性同士が結ばれなくても百合であると認識できる人は、プレイする価値がある百合ゲーだと思います(ちなみにゼルダの伝説としても普通に面白いです)。

 

哀しそうなテリーの乳首も見れます。

f:id:negishiso:20210924055531j:image

終わり

 

www.nintendo.co.jp

*1:未プレイではあるが、もしかしたらトゥーンリンクでおなじみの「風のタクト」は後者に該当するかもしれない。船に乗るイメージがあるので、海で物語が展開するのであればということだが

*2:自分の弱点は幼なじみ百合であるが、幼なじみもアリ寄りのアリである。とはいえ本音では「リンクが女の子なら良かったのにな~」と思っていたし、確か口にも出していた。女の子リンクはきっとかわいいので

大阪大学感傷マゾ研究会『青春ヘラ ver.1「ぼくらの感傷マゾ」』読んだ!

読んで思ったことを雑多に書いていきます。

なお、本文の内容は太字で表現しています(引用するのが筋だが、一言一句打つのがめんどいので)。

 

 

わく/かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン巻頭インタビュー

感傷マゾの段階として「ヒロインが悲しい目に遭うのが快感」→「本当にその態度でいいのかという罪悪感」→「ヒロインに自分の罪を糾弾してほしい(マゾ)」

私にはこの感情の機微が分からなかった。自分語りになるが、私は現実の人間同様、アニメキャラも誰一人として不幸になってほしくない思想を持っている。というわけでキャラに対して罪悪感を覚えることはあまり無いのだが、最近は「自分の解釈が本当にキャラの意志に添っているかの判別は難しい」ことを理解しつつあるため*1、多少の罪悪感を覚えつつある。一方で、自分の罪を糾弾されたいかと言うと微妙だ。架空のヒロインが現実の人間を指さし糾弾する行為は、虚構であるキャラに決定権が委ねられている点で攻撃力は低いのではという素朴な疑問がある。それとも、第三者より唯一の関係性を結んでいる消費対象から責められる点に「マゾ」が詰まっているのだろうか。もちろんこの指摘は、消費対象である虚構の存在を、現実と等価に扱うことを前提としているが、この精神は後に書かれている

昨今の人々が持つ感傷は薄れてきているため、存在しなかったものに対してもノスタルジーを感じる動きが見えてきているし、それを肯定したい。

という姿勢に色濃く出ている。この辺りは非常に共感出来て、まさに現在の自分の関心事ドンピシャリである。

最近は感傷マゾというより、「感傷」が多く、自虐する人が少なくなっている。

ここらへんも頷きポイントだった。自分は勝手に「マゾの薄れ」と表現するが、最近は自己を下げる動きが「ダサい」ようになってきている。というか、やっているとめちゃくちゃ普通に心配される。幸いにも自分の周りには数人のキモいオタクが居て、まだ現役バリバリで自虐をやっているのだが、少し離れるとそういう人のまあ居ないこと。これはつまり「オタクだから世間からつまはじきにされても仕方ないよね」という意見*2が、オタクを主語に使う人々の拡大により「何故オタクが恥ずかしいのか」「え、俺もオタクだよwよくアニメも見るよ、ワンピースとか」が素直に肯定されるようになったのが大きいと思う。もちろんこれには「俺もけいおん!見たよ」「あの花見たよ」「SAO好きだよ」「鬼滅見るよ」と言うように、見るアニメの対象が実際にオタクと(かつての)非オタクの間で、徐々に重なりあったことも助けになったと思う。ここら辺にはサブスクによって「ドラマを見るつもりで契約したアマプラだけど、アニメもやってるし偶には見てみるか」というように、アニメという選択肢が(無償で)*3多くの若者に提供されるようになったことが大きいだろう。ではどこで非オタクとアニメオタクとの差が生まれるかというと、まさに「考察合戦」になるわけだが、ここまで妄想を勝手に進めると本題からずれるのでやめておく。

ようするに、マゾを良しとするオタクは少数派だしダサいのだ。皆さんはすぐに辞めるように。明るく楽しいオタ活ライフを!

実現可能性のない完全な虚構より、実現可能性のある虚構のほうが感傷(後悔)を感じやすい。

これは本当にその通り。

すでに青春を手にする時間が終わった人のための「感傷マゾ」である。ルサンチマンが前提としてあるので、他の人との定義の摺り合わせは難しいかも。

ここもそうですねと思う。メタ合戦になって得られる物は大抵不毛なので深入りしないほうがいい。

世代ごとに浸るエモや感傷は異なるが、まだまだ言語化されていないのでこれからが楽しみ。

本当はこの内容はもっと前に書かれていたが、ここなら次のペシミ氏の文章との繋がりがくっきり出てきて綺麗なのでここに置いときます。

 

まとめ

「感傷マゾってなに?」という私のような人が、この本をどういうモチベで何を求めて読めばいいのかの指針となる非常に良い文章でした。ありがとうございました。

 

ぼくらに感傷マゾが必要な理由 ペシミ

わく氏の感想でも書きましたが、ここで「世代」を感じました。2002年生まれって何だ。そんな人間がこの世に「大学生として」存在するのか?恐ろしい。勘弁してくれ。

エモの傾向

①美しい風景

②低画質、夜

③学校の友達との写真「#アオハル」

ペシミ氏は、Instagramの働きかけもあり、自由だったはずの「主観」が抜け落ち、各々の青春像は皆が受け取るべき全体像になってしまったと記し、竹馬氏の「青春の全体主義という表現を引用しているが、今はそういうことになっているのかと素直に驚いた。これは90年代生まれの自分が否定するものではなく、そうなんだと受け入れるべきものだろう。

一見、自分たちの世代と大して変わらないように思う。自分達は上の青春像を(オタクなら皆が見ていた)深夜アニメというかたちで受け取り、あのような青春をしたかったと夢想していたからだ。それがTikTokInstagramで母数が拡大されただけなんじゃないのかな~と最初は思っていたのだが、どうやら話はより複雑で、問題は「青春」の演じ手が虚構から現実の「ぼくら」に移ったところにあるのだろう。つまり、わく氏が触れたように、「青春」の再現可能性は演者が「ぼくら」である点で、虚構の「青春」を受け取っていた私たちより否応なく高まる。このあたりに「マゾの薄れ」の気配を感じるが、皆が可能性を純粋に追い求めたことにより、自分達の首を絞めるようになったのだろう。あれもこれも皆の「青春」が可視化されるようになったSNSのせいである。やっぱりSNSはクソなのでみんなで辞めましょう。

あと、「エモ」についてぼんやりと考えたのだが、①②を踏まえると、画質が良すぎることと画質が良くないこと、つまり「目の前にあるほど鮮明なのに手が届かない」「あまりに画質が低く、時代というフィルターを感じるために手が届かない」というような「体験への手の届かなさ(可能性の低さ)」に惹かれている節があるのかなと感じた。そのように読むと、①から③はすべて同様の「可能性へのアクセス」というワードで纏められそうではある。とはいえ、「エモ」に欠かせないのが「物語喚起性」だと自分は考えているので、この辺りも踏まえた話をしたほうが良いと思う。もっとも、「現実」と「あり得たかもしれない現実(または虚構)」を並べると、自然とその間隙を埋めるものが「物語」だと自分は思っている。その「物語」が発生しやすいものにこそ「エモ」は発生するのではないか。事実、恋愛ドラマのラブストーリーを見て「エモ」を感じるオタクはどれだけいるだろう。これはドラマ内の「あり得たかもしれない虚構」に対する「現実」がうまく形成されていないからではないか。一方で、風景や青春といった私たちの身の回りにありアクセスしやすいものには、「エモ」は発生しやすい。どれもこれも二つの世界がどれほど結びつきやすいかに依存しているように自分は思う。

青春ヘラについての意見は、わく氏の部分で書いたのとほぼ同じで、自分も同意見です。ただ、「なぜ消極的事実をアイデンティティにしてはいけないのか?」という葛藤なく、素朴にこの「マゾ」を危険視しているあたり、2000年代生まれの人はしっかりしているんだなと感動する(馬鹿にしているわけではなく純粋に褒めています)。その危険な思想が当たり前だった時代があったんですよ、本当に(私たちだけ?)。

 

まとめ

ペシミさんだけのいい青春を過ごして欲しい。青春を否定するのも肯定するのも自分次第です。ちなみに自分はどちらかと言えば否定派です。

 

「言葉」に救われたいのに。竹馬春風 -「青春の全体主義」概念の提唱-

書かれていることと、これまでに自分が書いてしまったことが似通っていたのでコメントすることがありませんでした。興味が無いわけではなく、そうだよねというテンションで読んでいました。もっとも、最後の感傷マゾのところは自分に該当しないので、その限りではありませんが。いずれにせよ2000年代生まれが続いて辛く苦しいです。若さが眩しい。

 

自虐と時間 きゃくの -「感傷マゾ」概念の心ばかりの整理-

(感傷マゾにおいては)自分が望んでいた理想化された青春が、実は虚構のものだった、という所に切なさが生まれるわけじゃないですか。永遠性をもつものが、無常性をもつものに切り替わることが、切なさの根拠だと思うのね。

 

これは座談会のわく氏の発言。

超時間的な次元に属すると思っていた理想が、実は時間の試練を受けて滅びゆくさだめにあるという次第を知ることへの悲しみが、ここでいう「切なさ」であり、「感傷マゾ」の核にあたる。

こちらはきゃくの氏のまとめ。

個人的には、どちらにも納得できない。きゃくの氏によるわく氏の発言の変換には何ら問題がないので、自分はわく氏の発言に意義を唱えることになる(あるいはそれに同意するきゃくの氏にも?)

というのも、この文章では「理想(化された青春)」が滅ぶことにこそ切なさがあるような意味にとれる。しかし「理想」は時間によって変化こそすれ、劣化するものではない(そもそも理想の劣化とは言わない)。経時変化するのはそれを認識する自己の方ではないかという点で受け入れられない。つまり私は、「理想が劣化することを知ることで切なさを覚える」のではなく、「理想と違って劣化しつつある自分を知ることで切なさを覚えるのではないか」と考える。同様に、永遠性を持つと幻想していたが、無常性を孕んでいることが明らかになるのも「自己の肉体(あるいは年齢)」であるはずである(いつのまにか30代になっていた、大学生になって高校時代が終わっていた、という気付きがまさにそう)。ここはきゃくのさんが課題とした諸々の点において割と重要な部分だと思うのではっきりさせたさがあるが、そう思っているのは自分だけかもしれん。

結論の話。第一のマゾヒズムの「否認」、この概念は面白かったです。世界を破壊・拒絶するのではなく、見ない振りをする。それにより世界を宙づりにする操作は好きですし、マゾヒズムと感傷マゾは区別されるものではなく親和性が高いものだという指摘は、(本文を読む限りでは)その通りだと思います。自分は全然このあたりの議論できませんが。

第二、三秋さんの著作をどのように扱うかについては、マジで一冊も読んだことがないので自分は触れるべきではないですね。

第三はまったくもってその通りだと思います。

 

まとめ

感傷マゾの定義がきちんとなされておらず、そこから取り組もうという姿勢がすごかったです。結局大事なのは「自分の経験」なるものを取り戻せるかどうか、本当にこの通りだと思います。

なあ、SNSを辞めよう、杏寿郎。

 

理想の人間像・青春像、私の今後 サボテン

大学生であるから高校生的な恋愛はできない

!!!!!!

本当にその通りなんですけれど、大学生を終えた自分からするとまだ「大学生の恋愛」が残されているのはとても貴重なことなんじゃないの!?と思いました。引き続き自分語りで恐縮ですが、自分はその「大学生の恋愛」を一切せずに終えました。異性と手を繋ぐことすらありませんでした。ただ、これを悲惨とみるかどうかは結局その人次第なんですよね。少なくとも自分は恋愛事に一切興味がなかったので、何回大学時代に戻っても他人と付き合うことはないと思います。でもそれが嫌な人は自然と交際するでしょう、多分。恋愛なんて使命感でやるもんじゃなくて、そのときの気分でやるものですからね。今かなりいいこと言った。

 

届くことのない青春像 カルテ -魚の小骨を添えて-

バイトをして旅行するのはとてもいいことだと思いました。

さっきから薄々気がついていたのですが、執筆者がみんな一回り歳下のせいか、誰からも頼まれていないのに(しかもこの記事が執筆者に読まれるかどうかもわからないのに)大学生活に不安を抱く人にエールを送るおじさんになっている自分に涙が止まらない。

狂うぞ、俺は。

 

私の青春、その残滓 枯葉

なんかこれまでも時々目に入っていたんですが、感傷マゾの定義の摺り合わせでトラブっているのでしょうか。いろんな定義があってもいいと思いますが、自分は定義を決定したい派なので下手なことを言わないうちに黙ります(既にきゃくのさんのところで自分の「感傷マゾ」をぶつけている人間の言うことではない)。

 

拗らせオタクが感傷マゾ研究会に入ってみた 森野鏡

これからも自分だけの感傷マゾを探して頑張ってください。

 

虚構を愛でること、現実で愛を知ること しづき

めちゃくちゃ良い文章だと思いました。自分も虚構を愛する人間なので共感してしまう。個人的には「存在しないもの」に対しても「愛」は成立すると思うので、周りに流されずに虚構を愛でて欲しいです。

この前知り合いに教えてもらった、これを置いておきます。

anond.hatelabo.jp

 

つれづれなるままに 風雪

想像以上に「それは感傷マゾじゃなくて虚構エモだよ」おじさんが沸いているらしく、恐ろしくなっています。自分も気をつけよう。

 

【未読】 感情を快楽に変換すること 否定形

「未読」というタイトルではなく、本当に読めていないという意味です。読みたいのだけれど、「やる気はあるのにクリアしていないゲームのネタバレ」を含む文章は読めませんでした。どうか許してください……。なんかめちゃくちゃ文量があって気合いがすごいのだけは分かります。

 

死ぬほどたのしい夢をみた 織沢実

自分好みの戯曲でした。最初のインパクトが非常に強く、感マゾの台詞を実際に舞台で聞くとなかなか面白い感情になりそうだなと思いました。あと台詞の掛け合いが巧い。大塚製薬が悪者の戯曲は初めて読んだので、そういう点も良かったです。そのまま名前を出しちゃっていいのかは分かりませんが……。あと、メタが好きなので、当たり前のようにメタに持って行く姿勢も好みでした。最後の展開は意外でしたが、まあこれはこれでいいのかもしれない。

 

 

以上

知り合いの文章があるので読んでみましたが、他の方の文章も読めて良かったです。あと皆さん「青春」を真剣に探されているようですが、少なくとも私にはこれも「大学生の青春」が詰まった一冊に思えたので、そこまで悲観されなくてもいいようには思います。

と、このような文章を書いても「いや、そうは言ってもね……」と卑屈に受け止めていたのがかつての大学生の自分でしたが、今の大学生はこの文章をどのように受容するのでしょうか。まあどのように受容しても良くて、常に皆さんの人生の主導権は皆さんに委ねられているので頑張ってください。

それにしても、なんで自分は読まれる前提で文章を書いているんだろう。自意識が怖すぎる。あとSNSさっさとやめたいです。

*1:端から聞けば当たり前だろという話ではあるが、かつての自分はキャラの本当の幸福を祈って創作をしていたので(キャラを恣意的に歪めて創作をするオタクと比べて相対的に)罪はないと思っていた

*2:もちろんこれは、オタクがオタクであることを少なからず肯定していることによって生まれる発言であり、リア充と比べて陰鬱な人生であってもそれはそれで良しとする前向きな諦念が根底にあったと思う

*3:ドラマを見るつもりで契約したのだから、追加料金が発生しないという意味で無料

おねロリ百合アンソロジー「ストロベリーパルフェ」読んだ!

f:id:negishiso:20210912071847j:image

毎日ブログ更新、かなり評判が良くて毎日6551481363579人くらいの読者から「毎日ねぎしその文章が読めるのサイコー!」という声を頂いていたのですが*1、やっぱりめんどいので辞めました。自分は本当に毎日何かをするというのが向いていない。ウォーキングだけは続いているので偉い。でもそれ以外は何一つ偉くないですね……。

本記事タイトルのおねロリ百合アンソロジーを読んだので感想メモを貼ります。感想は気に入った作品の順に並べています。

 

全体の感想

本作においておねロリの核となる部分(大人と子供との倫理観のすれ違い、立場の違い、大人が子供に手をかけることの罪深さ)を作品に落とし込めているさかさな先生、伊藤ハチ先生がラストを飾る形になっており非常に良かった。それ以外でも素晴らしい作品はいくつかあったが、一部おねとロリが絡むのがおねにとっての癒しであると大人側の都合のみで書かれている作品があり、評価の難しいところ。もちろん自分の考えが全てではなく、癒しを求めておねロリを読む人間もいるだろうからこの作品のラインナップはアンソロジーとして非常に優秀だと思わざるを得ない。編集者の斉藤浩さん、また名前を見かけることになるかもしれない。

 

伊藤ハチ「自由への逃亡」

やっぱ天才なんだわ。基本的にロリには世界を拓く力はなく、死体や涙や絶望といった「汚い」ものを見せられていい存在でもない。つまりロリとは当たり前ながらも庇護されるべき存在であるし、その役割を担うのは子供より物理的・社会的に力を持ち、「汚い」ものを見慣れた人間でなくてはならない。この当たり前の前提をどこまで共有できるかが問題なのだけれど、少なくとも今回のケースは国が行った原発実験にこそ問題があり、その害を被るのは本来大人だけでなくてはならなかったという点で共感する。大人の都合により自由を奪われた「天使」を、「天使」がずっと夢見ていた青空や花畑という「自由」の場へと連れ出すのが大筋で、これだけで好きになる。本来であれば逃亡百合に備わるはずの閉塞感は、灰色の空から青空へ、生命の朽ちた病院から草原へと移ることで軽減され、なんとも言えない絶妙な読後感を生み出す。妹への追悼をタバコの火で代用するのはファイアパンチで見た流れなのだが、やはりとてつもなくかっこいい仕草。大人のケジメは大人がつけるという倫理観を他でもない伊藤ハチ先生が備えていることが、日本のおねロリ界にとって救いでしかない。線の薄さ、多重に重なる輪郭線が演出する子供の頬の柔らかさが大好きすぎます。天才です。

 

さかさな「まよいどり」

ガチで俺が求めている倫理観を持っている人間に出会えて本当に良かった。子供の感情のまま(こと恋愛に関しては)善悪がつかないような大人もいれば、何を考えているのわからない無邪気なロリから脱却しつつも、嘘をつく大人になりきれない子供もいる。大人=嘘というのがこの構造の中にはあるんだけれど、嘘をつくようになったからと言って精神(大人)と肉体(子供)が一致するわけでもなく、心身の成長スピードには差異がある。春の季節に新たな制服に身を包んだ小瑠璃は「ダボダボ」というイメージからまた子供にリセットされてしまうけれど、精神と違って肉体はそのような脱皮を繰り返して少しずつ大人になるナツの季節に近づいていく。脱皮というイメージから連想される幸せ、「待つ」ことを覚えた(倫理観を備えるようになった)大人、ナツから連想する青春の甘酸っぱさが見通せて全てが愛おしい。素晴らしい作品。


篠ヒロフミ「のんちゃんのコーヒー」

とても素晴らしい。ロリの感情の動きや行動(手紙を恐る恐る開くシーンなど)に愛が詰まっており、大満足。冴子さんからのんちゃんへの優しい視線も最高。


くもすずめ「私の先生は魔法使い」

めちゃくちゃいい。魔法使いを疑われる人間が魔法使いという展開はありふれているが、魔法使いであることが幼女にとってストレートな救いになる点が綺麗すぎる。大好きだ。


はねこと:表紙

ロリに迫られ、診察を受ける「お姉さん」の頬の染め具合が良い。恐らく血は繋がっておらず、共に友人は少ない。大量の診察セットからはロリの診察に対する真剣さが感じ取られ、絶対にお医者さんごっこをしたいんだという強い意志が見られる。それに屈するお姉さんはまだ学生で、大人になりきれていないところからも庇護する側に完全には立てておらず、ロリの倫理観でずるずると危うい一線の近くをあゆみ続ける。そういうシーンの切り取りを思わせる素晴らしい一枚。


いちごイチエ「私のおねいちゃんはうるさい!」

おねいちゃんって呼び名がとてもいい。ただのお姉ちゃんではないことが「い」に込められている。しょんもりという言語センスもよく、絵だけではなく言葉でも作品世界作りがなされている点で好感度が高い。個人的には姉妹百合なのだが、これくらい歳の差があるとおねロリと言えなくもない。


寺山電「姪に殺されるかもしれない」

ジト目ロリ、めちゃ可愛いので神。子供の意味わからん動きが表現されていてそこもいい(最後の首締めだけは微妙だが)。強い感情を持ったロリに法律を変えるとまで言わせるのはオタク的にはとても嬉しいが、その感情の大小に関わらず、取り組むべきは大人だよなとは思う。でもまぁフィクションはフィクションで消化すべきですね。


和泉キリフ「おとなりエンジェルズ」

ゆうぽむを連想してしまった。案外テンプレ気味な作品でびっくりした。


めの「これはフィクションです!」

youtuberの画面越しの虚構を扱っているが、次第に嘘が本当になっていく様は予想通りだが嬉しい。ただそう離れていない年齢差や(義理であれ)姉妹である関係性を考えると、おねロリに分類されるのかは微妙(自分は姉妹百合だと思う)。ただ、これまでのおねロリの概念を広げる良い作品でもあるのかもしれない。

 

さかなや「マイプリンセス」

お姫様に憧れるひなちゃんはとても可愛らしいのだけれど、自分の代わりにみどりお姉さんをお姫様にしようとする感情の動きが掴めなかった。幼女はそんなことを考えるだろうか?もう少し自分本位なムーブが見たかったし、自分の嫌な黒髪サラサラストレートでもお姫様になれることを教えてあげるのが筋だと思う。とはいえ、ほんのりと親戚づきあいをするこの作品はそもそも他の作品とはまた違った目でみることになった。こういうのもおねロリと言えばおねロリですね。


竹嶋えく「お姉ちゃんは変わってる」

あまりにテンプレなので面白くないが、逆に言えばテンプレでも作品として仕上げる実力があるのですごいのかもしれない。

 

以上。

*1:嘘です

遠野遥「破局」読んだ!

さっと読める中編だった。高山羽根子首里の馬』と同じく第163回芥川賞を受賞した作品であるが、個人的にはそこまで評価するものかな?とは思う。芥川賞は取りそうな香りがプンプンしていたので、いかにもという感じ。

この前読んだ村田沙耶香コンビニ人間』では、無感情かつ無欲な人間が規律に縛られることで社会に溶け込もうとする話で、孤立から脱却する(他者から承認される)手段として中身が伴わない抜け殻を模倣することを良しとする。コンビニという中身が圧倒的に充実した店舗で働く一方で、中身が詰まっていない人間とそれを承認する社会の対比が面白かったように思う。

破局の主人公も、コンビニ人間と同じく中身を伴わない人間だ。唯一彼には自律的なスポーツへの執着があり、恋愛とセックスが好きなように、他者を征服することに快感を覚えている節がある。一方でその他のことには何処までもフラットな(あるいは興味の無い)視点で物事を見つめ、それが端正な文体に表現されている。もうひとつ面白いのは、『コンビニ人間』の主人公は社会的敗者で、『破局』の主人公は社会的勝者に分離されるところだと思う。作品としてそれぞれ違った道のりを歩むが、いずれも執着していたものを奪われた瞬間に自己が暴走する点で似通っている。ただ、『コンビニ人間』よりも共感しやすく、共感能力や自己が欠如した人物の造形に成功しているという点においてはすごいと思うし、それゆえに『コンビニ人間』が芥川賞を取れば『破局』も芥川賞を取ることになる。押い出しの原理である(そうか?)。

ひとつ気になるのが、平野啓一郎も選評で触れていた「かくれんぼ」等の用法だが、これに加えて作品中では「首だけの女の怪談」「区別が付かない赤いメダカ」などがある。怖いようで怖くない怪談や、赤くて名前のないメダカは恐怖を煽るようで煽らず、個人的には、所有主の灯の増大する性欲の象徴の予兆として働いているくらいの認識を出なかった。かくれんぼで「隠れるのが巧い」と自称する灯が、その性欲を隠し続け、最期の最期に正体を見せることになるという点も巧いといえば巧いが、そこまで構造や作品の美しさに寄与しているかと言えば微妙。

結論からすれば面白いけれど積極的には推せないレベルの作品なのだが、それでも一部の表現には思わず唸ってしまったのでいくつか引用して終わりにする。

私の性器が麻衣子の腰に接触し、ナイフのように勃起していた。勃起した男性器を押しつけられるのは、いったいどんな気分か。興奮するか。もっと押しつけて欲しいか。熱いか。硬いか。何とも思わないか。どうでもいいか。汚いか。不快か。頭にくるか。悲しいか。泣きたいか。許せないか。早くこの時が過ぎて欲しいか。少し気になったが、勃起した男性器を押しつけられた経験のない私にはわからない。私としては、麻衣子の腰に男性器を押しつけているのは、悪くない気分だった。

これは素晴らしかった。

また灯が性器に話しかける描写や、麻衣子に詰め寄られた時の文章、

どうしてと麻衣子が言い、穴、と私は想った。口や鼻というのはつまり人間の顔に空いた穴だと気づいたのだ。

この辺りは非凡なセンスを感じる。主人公の異常性というより、独自の価値観による視点を十分に説明できている文章だと思う。

こうして見ていくと、作品自体はそこまで合わなかったが、作家としてはやはりすごいのだろうと考えを改めたりする。他の作品も読んでみたい。

美術館と図書館に行く

本当ならばタイトルに「映画館」も追加したかったのだけれど、映画館へのアクセスが悪すぎて足を運べない。そう離れたところにあるわけでは無く、車があれば十数分でいける距離ではあるのだが(都会からすれば非常に遠いことは否めない)、家族みなが「ねぎしそは家に引きこもるもの」だと思い込み、勝手に自分たちの予定を組み立てていき車に乗っていくので、自分は祖母の介護を強いられ昼間で自宅待機をせねばならないし、外出時の相棒は偽ロードバイク(自分はロードバイクだと思って買ったが、自転車屋の店員は「これはロードバイクではないです」とのこと)ということになる。俺はこいつと旅に出る。美術館と図書館に行く。ついでに映画館にも行ければいいのに。

と思って感傷的に書き始めていたのだが、よくよく考えれば自転車でもそう遠くないことを思い出した。あれ、もしかしたら自転車に乗って映画館見に行けるかも。というより、仕事終わりに映画館に向かうことだって可能かもしれない。今までずっと車に乗って行っていたので、「休日に」「車でしか行けない*1」という固定観念に縛られていた。まるでゼルダの伝説のダンジョンのようだと思う。そうか、自転車でも行けるのか。しかも平日でも行けるのか!

仕事終わりでもぜんぜん「ドライブ・マイ・カー」観れるじゃん!

ちょっと急にテンションが上がってきたので今回の記事はここで終わりにしようかと思います。*2

このブログ書いて良かった、こういう気付きがあるのでブログは良いですね。

 

*1:実は自分は免許を持ってはいるものの、車の運転がめちゃくちゃに嫌いだ。事故した時のリスクと移動するときの利便性を考えると、あまりに釣り合いが合わないからだ。それゆえに車に乗って映画館に行くことに強い抵抗感があった

*2:ちなみに本来書こうとしていたことは、美術館で何故か毎月初めの日曜は入館無料になっていたこと、浜田知明『初年兵哀歌 銃架のかげ』『初年兵哀歌 歩哨』や吹田文明『虹は花の色を盗んで咲く』、君平『7.62MM 7食入』などを知ることが出来た嬉しさについてだった。入館料無料が嬉しいのは言うまでもないことだけれど(ただ社会人として全然払える金額ではあるし、入館料を払った方がこの美術館のためになるんじゃないのかと思ったりするので、今度行った時に聞こうかなと思ったがかなり失礼なので辞めます)、やはり良い作品に出会えた時の喜びは格別である。自分はこれまで美術館の所在地が田舎である故に、展示されている作家も作品も、同郷のよしみで飾られているものしかないんじゃないのと思っていたところがあった。そのため都会の美術館しか行く価値はないと思っていたのだが、地元の美術館で宇佐美圭司『遺作・制動(ブレーキ)・大洪水』を見て以来認識を改めているし、とんでもない作品というのはふとした時・場所に転がっているものである。もちろん、田舎より都会の方が接点が多いために出会いやすくなる確率は高いと思うのだが、田舎でも全然悪くないなと思えるようになってきている。特にこれは図書館において言えるのだけれど、地元の図書館がはちゃめちゃに優秀なので、海外から国内の有名どころの小説が多数揃っている。自分の経験上でしかないが、こればかりは都会でも珍しかったりするので、せっかくなのでもっと活用していきたいなとぼんやり考えている。これで気の置けない友人さえできれば最高だし、事実高校同期がそこらに居るので不可能ではないと思うのだけれど、このまえ呼びかけてから一気にコロナが拡大し、立ち消えになってしまった。インターネットオタクと連絡をとればいいのだけれど、最近はインターネットに人間関係を掌握されすぎな気がして良くないな~と声優と家族以外からほぼほぼ来ないLINEを見ながら考え込んでしまう。まあ原因は自分から話しかけないことにあるのだけれど、周囲はみんな車か釣りにしか興味がないっぽいからなあ。SNSで同郷のオタクを探すしかないのかもしれん。インターネットから離れたいのに、離れるためにインターネットを使わなければならない本末転倒感。とほほ。

枕の死骸に頭を乗せたら最悪なことになりました

公園に行った時のことでした。丁度日課の朝マラソンをしていた時に、木の根元から枕がゆっくりと顔を出す場面に出会いました。なかなか無いことなので座り込んで見守っていたんですけれど、その木には大量の枕の抜け殻がくっついていて、なるほどこの木は枕の脱皮スポットなのかと驚きました。甲殻類特有の節ばった二関節の八本脚で木にしがみつき、他の抜け殻の間を縫って自分だけのスペースを見つけます。枕が落ち着いたのでようやく脱皮かと思ったのですが、なぜか呼吸のたびに僅かに膨らみ萎むばかりで、全く殻を割る気配を見せないのです。脱皮するタイミングを見失ってしまったのだろうかと不安に思っていると、枕の堅く透明な殻のなかで、突如、真っ白な羽毛がブワッと広がりました。その勢いは烈しく、破裂しそうになりながらも殻内部からの圧力と大気圧との均衡は保たれていたようで、それきりゆるゆると萎んでいくばかりでした。結果としてそのまま枕は脱皮することなく、朝マラソンの二周目に再びその場に戻ってきた頃には、枕はコテンと木の根元に転がっていました。透明な殻のなかには羽毛をため込んだままです。見ると枕の裏側には内臓が詰まっていて、二度と拍動しないそれらは赤く黄色い有機物の塊でしかなく、ややグロテスクにも思えたのですが、なんとなくそれが生春巻きみたいにも見えて綺麗だったので持って帰ることにしました。

枕の死骸の感触はゴムのようでした。

枕というと普通、飛んでいるものを生け捕りにして永久麻酔で眠らせてから洗浄して皆さんの家庭に届けられるものですが、やっぱり死骸ということもありますし、いつもの枕とは少し様子が違います。あまりふわふわしていないし、ゴムっぽい肌触りはお世辞にもいいものだとは言えません。それでも自分はこの子を本当の枕のように使ってあげてみたくて(そもそも本当の枕はどちらかという話にもなりますが)、昨日は枕の死骸に頭を乗せて眠りに就きました。

悪くない寝心地でした。

ただ、問題は「いま」このときです。今朝起きたとき、何故か部屋全体がお酢のような匂いで充満していて、思わずむせ込みました。頭も濡れているし何コレという気持ちだったんですけれど、どうやら寝ている間に潰れた枕の内臓の汁が殻の隙間から漏れ出ていたようです。部屋の悪臭はこれが原因でした。ベッドは酸化した赤黒い色の汁でべとべとですし、羽毛も真っ赤に染まっていてキモいしで最悪です。それ以上にキモいのがさっきから自分の部屋の窓をキイキイ叫びながらたたき割ろうとしている枕の群れで、きっとこれも換気した時に部屋から漏れた枕の死臭につられてやってきた正義感の強い枕たちなんでしょう、本当に面倒くさい。いまはなんとか窓を閉めて耐え忍んでいますが、そのうち窓ガラスも割られてなかに入ってくるんじゃないかと心配です。とりあえず警察には通報しています。

でもこいつら、部屋のなかに入ってきて何をするつもりなんでしょう?

樋口惣太郎「大江戸温泉物語」を読んだ感想

※注意! このブログは「大江戸温泉物語」のネタバレを含みます!

 

 

 

 

最近話題になっている「大江戸温泉物語」を読みました。

ついに完結しましたね。樋口惣太郎「小江戸温泉物語」シリーズの三作目でもある「大江戸」ですが、2作目の「中江戸」に比べたら流石に面白かったです。「中江戸」はなんというか全てにおいて中途半端で、宮原満緒が新聞に寄せた書評で「あまりに冗長で吐き気がした。作者を殺そうと思う」とまで書いたのも理解は出来ます。頷けはしないですけれど。個人的には田村なお子が「(中江戸は)まるで三日間お湯を替えていない温泉に入ったかのようなぬるさ」と評していたのが的確で、あの微妙に引き締まるようで引き締まらない文章をずるずると読まねばならない感覚は、温泉に入っているのにぬるいがために身体が冷めていくという逆転現象に通じるところがありますし、それでいてそこから抜け出せない感覚も思い出されます。田村も自分も作者への殺意は沸かなくて、「小江戸」で完全に心を奪われた側の人間として、どうしても「中江戸」を捨てきれないところがあるんだと思います。確かにミステリとしての質は言うほど悪くはないんです。文体が森鴎外みたいにかっきり事実を並べていくスタイルなのもよかった。ただ、そのようなテンポかつ面白そうな雰囲気で話を進めていくのに対し、メインストーリーの動きがあまりに少ないし、不必要な描写が多すぎる。結局サビの部分がわからないまま殆どの人は詠み終えると思います。で、結局は500P越えのくせに、中身としては小江戸と同じくらいの面白さなんですよね。小江戸が100Pだったことを考えると、やっぱりその密度の差が面白さに直結したのかな~と。

その点、本作の「大江戸」はマジですごかった。というより「なんで『中江戸』みたいな中途半端な物語をやったんだろう?」って思っていた謎が「大江戸」ですべて解消されて、「そんなことある???」と思いました。

なんか最近Twitterでバズってましたけれど、未読者からすれば意味がわからん大江戸の冒頭、

「小西さんは死なないよ。僕やなっちゃんが死んでも」

 痛みはなかったはずだ。

 数秒後に出来た大曲の後頭部の凹みは、奇しくも中佐古と同じかたちをしていた。血で濡れた角材を手にする男とその妻は、大曲の頭の陥没がもう二度と元には戻らないことを確認し、足早にその場を去っていった。だから彼らは、大曲が胸元のペンダントを握っていたことに気がつかなかった。

 気付くはずがなかったのだ。

この入り方はマジで天才のそれで、ここに「小江戸温泉物語」シリーズが全て詰まってるって言っても良いんですよね。いや、なんか書きながら泣けてきた。

つまりどういうことかと言うと、これはシリーズ全体のネタバレになるんですけれど、「シリーズの主人公は全員、地球外生命体」なんですよ。SF小説でこれやるならつまらなさすぎますけれど、このシリーズってミステリとして読むじゃないですか。登場人物が地球外生命体っていう発想は外されるんですよね。しかも小西は探偵役で、中佐古も大曲も探偵役かつ被害者をやっていますけれど、まったく地球外生命体である要素は推理に関わってこないんです。このシリーズを通して描かれているのは、「いつのまにか地球に入り込んでいた宇宙人の日常」でもあるんですね。で、小江戸の小西はまさにモデルタイプで、探偵として巧く地球に溶け込んでいて、「侵略せずに他の星の面倒事を解決することで共存を図る」平和的手法を活用していたことからも、次世代である中佐古と大曲のヒーロー像そのものでもあったわけです。この伝記が「小江戸」として故郷で発行される。漫画化もアニメ化もされて、故郷の星では小西になりきって戦う遊びが流行っていたらしく、それを受けて、小西への憧れがずっと抜けない中佐古と大曲を主人公として配置した構成が非常によかった。しかもこの二人は幼なじみ百合であることが「大江戸」で明かされるのがすごく良くて、「中江戸」で中途半端に放置されていた中佐古が死に際に握る胸元のペンダントは、かつて故郷で大曲と一緒に買った小西仕様のそれであり、お揃いなんですよ。いや~流石にエモすぎる。これ、二人だけしか持っていないペンダントじゃなくて、あくまでレディメイドってところがいいんですよね。つまり二人の絆は中江戸と大江戸で完結するわけですけれど、小西への憧憬は二人だけのものではなく、誰でも手にすることができるレディメイドのペンダントを通して、これからもずっと続いていくんですね。これが本当に良い。その根底にあるのが他者との共存で、相手(地球人)の問題を本当に理解したいと考えているその姿勢に心をやられますよね。さらにここで地球人として心を打たれるということにも逆転の構造があって、我々も同様に他者への理解をすれば、歩み寄られた側からすると心を打たれるよね?という樋口惣太郎の善性が込められているのだと思います。

TLを見ていても、大江戸温泉物語を読んでいる人は全然いないので、はやくこの感想を分かち合いたい……興味のある方は是非こちらからどうぞ→(