新薬史観

地雷カプお断り

浅野いにお「おざなり君」読んだ!

毎日日記(Twitter除く)を書く知り合いが2人に増えた(ことを知った)ので、今日から自分も毎日ブログを書くことにした。二度あることは三度あると言うので、それを応用すれば二人にできることは三人目である自分にもできるはずなのだ。

 

というわけで早速書く内容がないので、手元の漫画の感想を書きます。

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ただただ贅沢な本という印象。いま世に出ている漫画は殆どがモノクロ原稿で世界に色を出そうとしているが、おざなり君は謎に「全ページフルカラー」なのにかかわらず、「色がある」ことをテーマにするでもなく、ひたすら漫画表現の幅を伸ばそうとしているように見える。

そのうえ、不条理な展開に加えて明らかに意味の無い実写の写真が挿入されたり、毎話タイトルロゴが変わったりと手が込んでいるのに、第7話まで掲載されるのはほとんど同じシナリオの漫画であるところも気になる。正直に言うと、この時点で自分は「しょうもないものを過剰包装することがこの作品が提示する面白さなのか?」と勘違いしてしまった。漫画で「無駄」を「贅沢」として消費する快感というのだろうか、浅野いにおなら考えそうだなと思ったが、実際にこの辺りは漫画自体の面白さより奇抜さが勝っているように思う。

話が変わるのは第8話からで、このあたりから話に厚みが生まれていく。上司に反抗する部下、という関係がなぜか恋愛関係に結びつき、かと思えば過去に二人は深い結びつきを持っていたことが明らかになる。序盤の理不尽な上司の暴力への解が後半に盛り込まれているという点で、最終的にこの作品の話に「無駄」なものはなかったのだと思い知らされる点で、やはり浅野いにおって漫画うまいなあと思う。これは伏線と構成の話ではなく、挿入してくるイラストや落書き、言葉選びなどに溢れる「浅野いにおワールド」とでも言えばいいのだろうか、「こいつふざけるな~真面目に描いているのか?」という先入観を読者に抱かせて舐めさせてから殴ってくるようなタチの悪さがあった(P26、27の見開きのライブシーンでは圧倒的な描写力で言葉を失う)。

テーマとしては、音楽に無限の可能性を感じていた学生時代の心と、その心とは別に成長していく身体、要求される社会的地位などとの折り合いの付け方が主に扱われているのが、その齟齬がどうしようもなくなった先としての一夜限りの性交という位置づけもかなり良かった。

やっぱ浅野いにおはすごい。

偏見本棚についての回答

偏見本棚というおもしろ概念があります。

インターネットでは読んだ本の感想のシェアーが盛んにおこなわれているほか、読書メーターブクログといった本棚シェアーサービスが人気を集めている。一方で読書歴や本棚をさらすことで思想・関心・性的嗜好などを知られてしまったり、偏見を持たれてしまう危険もある。

そこで今回は逆転の発想で、親しいフォロワーなどから「こんな本を読んでそう」という偏見を集め、「偏見本棚」を作成した。

 

 

上の文章、および偏見本棚の元ネタはこちらからです

hito-horobe.net

で、かなり前にTwitterで「ブログ記事にします!」と偏見を募集したのを皆さんは覚えているでしょうか。自分は完全に忘れていました。申し訳ないです。

自分はこの元ネタの方ほど人望がなく、そもそも仲の良い知り合いなんて数人に限られるようなコミュ力なので0投稿を危惧していました。

なので、拡大施策として自分の場合は「本棚」といいつつも小説・漫画・映画・アニメなどを募集することにしました。結果6名の方から記入していただき、合計作品数は18となりました。

感謝感謝ですよ~(愛城華恋)

 

というわけで頂いた作品群を「既読」「読みかけ」「未読」の3つに分けていくとこうなりました。

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既読

大江健三郎『死者の奢り』

やが君(やがて君になる

インセプション

来る

雨に唄えば

あさがおと加瀬さん

推しが武道館いってくれたら死ぬ

男子高校生の日常

ユリ熊嵐

アイドルマスター シンデレラガールズ

 

読みかけ

社会契約論

BANANA FISH(アニメのみ視聴しました)

志村貴子放浪息子

ハッピーシュガーライフ

 

未読

三体

ノルウェイの森

総合タワーリシチ

花とアリス』(岩井俊二)

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「へ~」という感じになりました。

特に普段から言及していない作品であるにも関わらず、既読の作品を多く挙げられていることにびっくりしました。自分ってそんなにわかりやすい人間なのか!?(ツイート内容からかなり察せられそうではあるが)

折角なのでひとつずつコメントします。

既読

大江健三郎『死者の奢り』

高校生の時に読んで、あまりの文章の巧さにひっくり返った作品です。当時の友人と一緒に読んで、「こいつの文章表現はマジでやばい!」と震えていました。文字を読んで死体の腐臭を感じさせられたのは初めてで、これが安部公房の言っていた五感に訴えかけてくる文章の例なのかなと。そういえば大江健三郎はそこまで掘り下げれていないので、もっと読んでみたいと思います。

 

やが君(やがて君になる

どちらかと言えば好きな作品です。今の自分としては世間で絶賛されているようなモチベはそこまでなかったんですが(もう内容を忘れつつあるので)、当時の自分の感想を見ると絶賛していました。

この感想記事について知り合いに突っ込まれて、この作品を百合漫画としてラベリングすることへの違和感について話した記憶があります。

negishiso.hatenablog.com

 

インセプション

これ大好きです。当時の感想を引っ張ってきました。

5月19日 映画47「インセプション」(2010)

んも~~~~本当に大好きすぎる。SF小説ばりの世界設定と展開なのに、小説では表現できない映像の構図と時間感覚、映画でできることをこれでもかと詰め込んだ作品という感じで、本当に映画として満点過ぎる。入れ子構造になっている似た作品に「ハロー・ワールド」がある。野崎まど特有のどんでん返しもかなり好きだけれど、こっちのすっきりした終わり方も最高に良い。いや、すっきりしているかと言われると最後のシーンで「ムムム」とはなるが、映像が美しいので終わりとしては最高なんだよな。夢かどうかを判断するのにコマを持ってくるのも良い。二人で作り上げた町並みも最高すぎる。全体を通して最高にクリストファー・ノーランだし、クオリティが高すぎて本当に良かった。読むSF小説だ。見れて良かった。てか、渡辺謙ががっつり出ていてびびった。今まで見てきた洋画にほとんど日本人いなかったから目新しかった。見たことあんのパシフィックリムくらいじゃないか。日本人万歳(?)

視聴映画記録(2020.05/15~05/21) - 新薬史観

 

来る

当時の感想です。

8月16日 映画142「来る」(2018)

中島哲也監督作品。既に原作を読んでいるのでだいたいの話は分かっていたが、かなり面白いなこれ。OP映像がすごい良くてびっくりした。話の展開もおおよそ原作に忠実で、田舎のキモいところや育児の辛いところ、イクメンのうざいところ(僕はああいう「人生を謳歌しています!」という共感性に欠けた上昇志向の人間が死ぬほど嫌いです)など、いろいろなものが詰まっている。それでいて、除霊をエンタテインメントとして昇華しているので、単純にめちゃくちゃ面白い。楽しいホラー映画だった。

視聴映画記録(2020.08/14~08/27) - 新薬史観

 

雨に唄えば

当時の感想です。

8月14日 映画139「雨に唄えば」(1952)

自分が見たことあるミュージカル映画といえば、思いつく物が「ラ・ラ・ランド」と「マンマ・ミーア!」くらいしかなかったので、これは良くないなと思い漁っていくことにした。非常に楽しく見ることができた。脚本がスッキリしており、キャラ立ちしてるため、混乱することなくエンタテインメントととして楽しめる作品。いろいろ唄うが、個人的に一番好きな曲は表題作にもなっている「雨に唄えば」かな。ストレートでわかりやすいがために、万人受けするだろう映画でした。面白かったです。

視聴映画記録(2020.08/14~08/27) - 新薬史観

 

あさがおと加瀬さん

小さい映画館で見ました。実は原作未読で臨んだのですが、「女性同士の恋愛」という過度なラベリングから逃れた稀有な作品だと思っていて、個人的に非常に好みでした。ゆったりとした時間で描かれるのも好きポイントでした。

 

推しが武道館いってくれたら死ぬ

天才の作品だと思っています。未だに完全に手書きらしく、線の美しさ、インクの掠れ具合がアイドルの一過性の輝きを強調しているようで魅力的。完結したら感想かきたいです。まいなとえりぴよさんの関係にどういう決着をつけるんでしょうかね。

 

男子高校生の日常

よくこの作品の名前が出てきたものだとびっくりしました。そしてその偏見通りに読んでます。例の「でもこの風……泣いています」の下りをネットで見つけてからハマり、「いいからお前も読んでみろ」と中学生か高校生かの時に友人に貸したのが「男子高校生の日常」との最期でした。なぜかクラスで回し読みされることになり、最終的に自分の手元に戻ってくることはありませんでした。今では良い思い出です。

 

ユリ熊嵐

イクニ作品はセーラームーン以外全部見ています。

そういえばこの辺りについて何も掘り下げていないというか、当時の自分と今の自分では感じることや解像度はまったく違うと思うので、改めて見通してみたいですね。

当時は、イクニが当時真剣に悩んでいたいじめにまつわる分断と孤立に愛情で向き合うことの大切さを~というような感想を抱いていたような気がします。ボンジュール鈴木さんのOPがかなり好きでCDも持っていました。

 

アイドルマスター シンデレラガールズ

見ました。未央ちゃんが観客のいないステージにキレてPが慰めたり、卯月ちゃんが笑えなくなって悲しい気持ちになったことは覚えているのですが、それ以外の記憶があまりありません。 

 

読みかけ

社会契約論

知り合いに誕生日プレゼントとしてもらって以来、時々読みたくなる本なのですが、普通に飽きて他の本やアニメに逃げています。許して。

 

BANANA FISH

漫画のカテゴリで投稿されていたんですが、漫画は未読でアニメは全部視聴しているのでこちらに。未だに同人人気が根強いジャンルのひとつだという認識なんですけど、それも納得の面白さなんですよね。漫画もいつか読もうと思っています。

 

志村貴子放浪息子

特に理由なく読みかけです。自分にはこういう同時並行で視聴を進めている本や映画、アニメが軽く50本はあります。読みます。

 

ハッピーシュガーライフ

自分はこういう血の薫るヤンデレ百合みたいなのを消費するのが辛い年頃になってきていて、それと1巻を読んだタイミングが悪かったのが原因です。

 

未読

三体

本は全て持っているのに1ページも読んでいない。正直今になってもこれを読んでいないのに、SFが好きですとは名乗れないような気がしています。読みたいんですが、分厚い本は苦手なんですよ。村上春樹の分厚い本は一瞬で読めて最高なんですが……

 

ノルウェイの森

ちょうど上で村上春樹の名前を出していますが読んでいません。村上春樹の本は誰かからプレゼントされたりオススメされたら大切に読みますが、これまでの経験から自分から読む作家ではないという分類になっていました(大変失礼)。でもこのかたちで暗にオススメされたので、是非読んで見ようと思います。

 

総合タワーリシチ

これ名前すら全然知らなかった作品だったので、たった今kindleで購入しました。読み終わったら感想書きます。

 

花とアリス』(岩井俊二)

殺人事件のほうは見ていますが、こっちは見ていないですね。実は経験上岩井俊二の映像作品とテンポの相性が悪いのではないか説が浮上しているのですが、作品自体はたいへん面白く視聴できているので、こちらも期待して観たいと思います。

 

 

コメントは以上です。

投稿してくださった皆様、大変ありがとうございました!

なんか他にもオススメ作品とかあったらマシュマロにくれると助かります。

marshmallow-qa.com

山田袋「君ありて幸福」読んだ!

山田袋先生の「君ありて幸福」を読んだ。そのまま読み流しても十分綺麗な絵を楽しめるが、考察すればさらに面白く読めるの思うので考察しようと思う。自分はそのような人間なので。

※というわけでネタバレ注意。「幼年期の終わり」についても触れるので、それが未見の人も注意してください。

 

さて、この漫画では佐久間という名の悪魔(にしか見えない人間)が現れる。佐久間は環をどんどん堕落の道に引きずり込んでいくのだが、実は佐久間は悪魔ではなくただの人間で、(オカルトだが)たまたま羽根と尻尾が生えただけだった。しかもこの羽根は生えたり抜けたりするもので、作品の後半で佐久間と入れ替わるように環が悪魔に成り代わる。つまり「悪魔」とはいかにもな名前の「佐久間」に固有の属性ではなく、誰でもなり得るものであり、なおかつ誰にでも視認できるものなのだ。

①悪魔は誰でもなり得るものであり、なおかつ誰にでも視認できるもの。

ではその「悪魔」とは何を意味しているのだろうか?

この作品では、まず初めに環は佐久間の「悪魔であること」より「赤い羽根を持っていること」に惹かれる。これは第2話で環が佐久間の名残を「羽根の赤さ」に求めて赤いゼラニウムを購入すること、行為に耽りながら「あなたの事悪魔だって信じそう…」と語ること(佐久間を悪魔だと信じてはいない)や、環の「男とこういう事するの初めてで」という悪魔という属性の否定からも考えられる。

また、悪魔と出会ったあの日から環はずっと夢を見ているような心地になっている。これは前から引きずり環の悪魔という存在の不信感に支えられながら日々を生きているという事実、誰の頼みも断らないように生きてこれたのにそれが出来なくなった非日常から構成されている夢心地である。ここで巧いと思ったのが「受け」としての悪魔で、本来であれば悪魔はその能力から人を操り統制するもののはずなのに、人間に犯されているという点で組み敷かれているようにも見えるからだ。この辺りはわざわざ原作でも引用されている『幼年期の終わり』の悪魔(オーバーロード)がまさにそうで、悪魔は人類を飼育しているように見えて、実際は人類にオーバーマインドとしての進化の余地を羨ましく思っているという逆転現象が描かれている。悪魔と人間の逆転という構図は、この漫画の本筋でも描かれているところであり、悪魔としての佐久間は悪魔の羽根と尻尾を失い、代わりに人類だったはずの環が悪魔となり佐久間の命を奪おうとするのである。

②悪魔は支配しながら支配されている重なり合った状態である(=あるいは悪魔に特権性はなく、同じ人間であるという点で①とも接続できるように感じる)。

これらの構造・描写で描かれているのは悪魔の無力さ・特権性の無さだと思うのだが、一方で無力なはずの佐久間は環を堕落の底へと突き落とすだけの誘惑の力を持つ。そしてその誘惑は環が本当に求めているものを与えるという点で、必然的に「母としての包容力」を内包する。これは序盤から佐久間が環にする「良い子良い子」という頭撫でにもその片鱗を観ることができるが、決して生まれることのないコンドームのなかで行き場のなくした環の精子を「赤ちゃん」と表現することで、「生まれることのない精子(=生まれることで母を殺した自分・生まれてはいけなかった自分・本来ならばコンドームのなかにいるべきだった自分)」という環の欠落した記憶・罪悪感が、あの佐久間の一言によって「赤ちゃん(生まれてはいけない自分から生まれている)=赤=赤のゼラニウム=赤の羽根を持った佐久間(=赤のカーネーション=母)」という連想が可能になるのだ。この環のなかの電撃のような一瞬の連想は絵だけで連なるコマとして表現されているのだが、それが佐久間と生でする行為に繋がる箇所は最高以外のどんな言葉でも表現できない。シームレスに決して生まれない子を孕ませる=男と男のセックス=生きた息子と死んだ母とのセックスというややオイディプス王を彷彿とさせる連想にはなるのだが、いずれにせよ二人の幸福だったSEXが一瞬にして強烈な「禁忌」を帯びるのが美しい。佐久間の「小さいおサカナみたい か~わい~」という無邪気な台詞から一気に読者の感情の持って行く表現が実現されているところに、この漫画の素晴らしさがあると思う。

(ちなみに、ここでは悪魔は母親と接続する、とは考えない。佐久間を母親だと認識したのは佐久間特有の優しさ・言葉選びによるものであり、悪魔であることが環の罪悪感を引き出したわけではないと思う。)

さて、続いてカラスについても考えたい。第3話の冒頭では不幸の象徴とされるカラスが二人の性交の証を暴き、終わりではカラスがカーテン越しに二人の性交を眺めている(一貫してカラスに観られているわけではない)。一方で4話では佐久間はカラスと見つめ合うが、すぐに環にカーテンを閉められ目線は切られてしまう。カーテンの役割上、閉めることで部屋の採光が悪くなり二人の空間が暗くなることを考えると、二人の関係に不幸の視線が注がれないように読者を安心させるとともに、二人の関係が閉塞していくこととも予感させる点が素晴らしい。後にカラスの存在の意味は「幸福とすることもできる」と逆転(悪魔同様にである)することになるのだが、それにしても第3話の頭と終わり、第4話の冒頭はいずれもアンバランスな幸福と不幸が描かれており、二人のどうしようもないどっちつかずの関係を無意識のうちに連想させるようになっているのが見事だと思う。

また、カラスは佐久間の「お産」のシーンで赤ん坊の産声のように鳴き声を上げる。ここでもカラスの二面性について考えることで、人形のお産を「祝福」と捉えることも「死産」と捉えることもできる点で面白い。とはいえ、ここでは人形(かつての環)の誕生と同時に母親である佐久間も生きているという構造になっているため、間違いなく祝福の鳴き声でしかないと思う。その証拠に、環が口にする「生きてる」という言葉は母と子のために2回ある。

最後に、環の罪悪感の整理・二人の間のわだかまりが完全に解消された時に、佐久間が口にする「カラスの声が聞こえなくなった」というもの。これは悪魔の現象を「魔が差した」と片付けるくらいに綺麗な回収を見せる。

というのも、二人の問題が解消されて聞こえなくなる幸福の象徴のカラスは恐らく二人に真の幸福を問いかけるものであったのだろうし、これまで長々と述べてきた悪魔についての話も、幸福を見失い人生を破滅させようと魔が差したことでそうなったのだという説明と先述の①②の考えはそれほど違っていないはずだ。つまり、カラスも悪魔も人を幸せに導くためのものである点で同質のものなのだ。

そう考えると、ひとつ面白いことに気がつかないだろうか?

序盤で触れたように、悪魔の羽は赤のゼラニウムと同じ赤色だということを認識したうえで、原作のイラストを見て欲しい。これはモノクロを活かした大変うまい表現なのだが、悪魔の羽は全く「赤色」に見えないのである。しかしながら、環が「赤」というから悪魔の羽は赤なのだ。そう考えると、書き下ろしのスペシャルエピソードの最後にて佐久間がカラスと会話するシーン、あそこでは何故か佐久間は数あるカラスの中からあの日にあったカラスだと認識したうえで声を掛けている。

自分は、あのカラスは「赤いカラス」だったのではないかと解釈する。

というのも、悪魔とカラスは同質であり、なおかつ赤いゼラニウムは「君ありて幸福」を示すことからも、赤色は幸福の象徴として意識的に使われていることは間違いないだろう。もちろん、モノクロの漫画であるし、現実に赤いカラスは存在しないことからも「カラスは黒に違いない」と他の人が反論したところで、自分は何も言い返すことはできない。けれどもあの世界にいる佐久間と環には色づいた世界が見えているはずであり、その色を自分達が認識することができない以上、絶対的な断絶が読者と作中の登場人物の間にある。自分は彼らだけが見える世界を信じたいし、作者がタイトルの「君」の赤字に込めた赤色への願いを信じるだけである。

本当に傑作だと思う。感動をありがとうございました。

自分にとっての「百合」って……なんや!?(Vtuber同士の百合を通して改めて考えてみる)

百合のオタクをやっていれば、「百合って……なんや!?」と思うことが稀によくあると思う。とはいえ百合の解釈は日に日に拡大され、もはや万人が納得できる「百合」を定義するのは不可能だと言い切ってもいいだろう。それでも人間は不可能なものを可能にしたがるものであり、かくいう自分も普段から推しカプ(最近はほのうみとまなロラ)のことしか考えていないのだが、ある時ふと賢者モードになって「そもそも百合とは?」みたいな顔つきになり、吉屋信子の『花物語』を紐解いたりする(それで特別何かが分かるわけではない)。

 

さて、今回この記事を書いたのは自分が再び賢者に転職したからに他ならず、全ての事象を理解した賢者特有の鋭くも深淵な瞳が見つめるのは「笹アン」であった。

賢者は思う。「なんでハマったんだろう」と。

そう、実はこのカプはVtuber同士の百合であり、下の記事で書いているように、自分はVtuber同士の百合に絶対にハマらない「はず」だったのだ。

negishiso.hatenablog.com

なのに、なんか知らんがハマってしまった(Vtuberは嫌いなはずなのに!)。まったく恐ろしいものである。自分の感情を自分が制御できないというのはかくも恐ろしいものなのか。聞けば成長期の女性は、自分の身体が無性別から女に変わる時にひどく困惑する(ことがある)というが、自分も似たような困惑を抱いているのかもしれない。これは適当を書いているので後で怒られたら削除します。

 

さて、自分が笹アンにハマったキッカケはこうである。

投稿に(全てを間違っている)とあるが、Vtuberに詳しくない人にも説明すると、自分が探していたのはリゼとアンジュのカプ、つまり「リゼアン」であり、そのふたりはどちらもホロライブではなくにじさんじという事務所に所属している。つまり何もかも間違えている訳なのだが、それくらいの解像度で「そういえば昔、りずあん(注:リゼアン)とかいうホロライブ(注:にじさんじ)の百合カプがあった気がするな……」と思いYoutubeで検索してみたのが全ての始まりだった。

で、前記事を読んだ知り合いから

「Vへの入り方が雑」

「選んでいる動画のチョイスが悪すぎる」

「もっと最初は切り抜きから観ていくべき」

というアドバイスを頂いたのを覚えていたので、「りずあん(注:リゼアン)の切り抜きを観るか!」と検索してみたものの全くリゼアンの動画がヒットせず(それはそう)、「なんぞ?」と思い検索キーワードを何度も変えながら漁り続けたところ、いつのまにか上の動画にたどり着いていたわけだ。

この動画を見ていると、まず背景知識ゼロなので「そもそも笹木って誰?」という感想を抱くわけだが、ぼんやり眺めていくうちに「ふーん、アンジュの恋のライバルって訳ね?」と理解する。そしてターンは笹木に変わり、あのびっくりするくらいあどけない声で「アンジュ好き」という言葉を聞くことになる。観ているこちらは背景知識が一切ないため「は?」と真顔になってしまう。いや、お前らライバルじゃないんか?

この辺りから齟齬が生まれており、アンジュの笹木への認識はライバルのままであるのに対し、笹木はライバルという認識を外し、「好きに染められてもうとる」ことになる。つまり笹木はアンジュのことをもはや敵視(?)していないわけだが、それを直接言われることもなく配信動画で知ったアンジュは困惑する。ライバルだったはずなのに、その認識が自分の知らないところで一方的に更新されていくのだ。しかもお互いに積極的に関係を築くことをしないために、対話をする機会もないまま、笹木だけがアンジュに想いを募らせる配信を垂れ流すことになる。アンジュの困惑は緊張に変わっていく。そしてある日、ついに二人だけでコラボしなければならない状況に陥るのだ。緊張の極限に追い込まれたアンジュ、その目の前に現れた笹木は、完全にこれまでの雰囲気とは違っていて……というように、関係性がリアルタイムで更新されていく面白さがある。自分はこれを観た後、「なんだこの関係性は!」と発狂してしまい、しばらくずっと「笹アン」(今度は間違えなかった)でようつべを検索することになってしまった。

この辺りの自分の感情の動きは、当時のツイートを貼ればわかりやすいと思う。Vを嫌っていた人間が涙を流しながらvtuberの百合にハマっていく貴重な産卵シーンである。

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完全に理解したと感じた時のグラフ

 

 哀れ、イラストまで描いてしまったあげく、最終的にはユネスコになってしまった。

それはともかく、ここまでわかりやすくドボンしたオタクは「何故ハマったのか?」について簡単な自己分析をする。幼馴染百合ならまだしも(それこそリゼアンの特権である!)、それを差し置いて笹アンを好きになったのは何故なのか?

 これを読んだ知り合いは、「それならば」ということで新たな沼を勧めてくれた。

「ノエフレ」と「crossick」である。

dic.pixiv.net

www.youtube.com

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dic.pixiv.net

 

www.youtube.com

 

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さて、多くの動画リンクを貼ったが(すべて観ろという意味ではない)、これらを観て感じたのは「なんか自分の思っている百合とは違う」ということだった。確かに尊い(「てぇてぇ」とは言いたくない)と感じることはあるものの、完全に乗り切れないところがあるのだ。なんというか、「これ、俺たち視聴者が乗ってもいいわけ?」という疑いの気持ちがある。男なのに女子トイレに入るような、そもそも規律としておかしいことをしているような気になっている。

当然規律なんてものは存在しないのだが、自分のなかでこの不条理な「規律」というものを解き明かさないことには、今後、自分のなかの百合がぐらついてしまう。

そしてその「規律」は、「みらるた」との出会いでおおよその輪郭を獲得したのだ。

 

「自分のなかで、鑑賞していい百合と悪い百合があるのかもしれない……」

 

www.youtube.com

さて、この動画は山神カルタというVtuberが、憧れの先輩でありずっと話したかった夕陽リリというVtuberと雑談配信をする……というものだが、開始50分くらいから雰囲気が一変してヤバいことになる。自分は背景知識がなかったために深手を負わずに助かったが、二人を一生懸命追っていた人たちにとってはまさに地獄のような終わりを迎える。サムネがただただ悲しい。

 

この動画を見て考えていたのは、「この配信を自分たちが観てもいいのだろうか?」という困惑だった。同じように考えている人は多くいたと思う。自分にとって、この動画は「コンテンツ」としての配信を超えた「他者との関係構築」を見せているように感じたのだ。

「他者との関係構築」をコンテンツとして配信することは、Vtuberの魅力のひとつであることに疑いはないと思う。コラボ配信で推しの新たな側面を観ることができたり、意外なところで人間関係が結ばれていたりする。そういうところに視聴者は面白さを感じる。

ただ、忘れてはいけないのは「Vtuberの中身は生身の人間である」という至極当然なことで、ガワはキャラクターでも中身が人間である以上、常にvtuberはキャラとしての関係と人間としての関係の板挟みに陥ることを強いられる。これは出演するVtuberの自覚に関わらず(配信画面のなかで本当のことしか話していないにしても)、視聴者と演者「たち」がともに作り上げる「キャラクター像」が存在する限り、決して逃れられないものだからだ。

この辺りに、自分にとってVtuber同士の関係性を、「百合」として消費できるか否かの分水嶺があるのだと思う。

改めて考えたいのが、先ほど述べた「演者『たち』」という箇所についてだ。自分はVtuber論に詳しいわけではないが、どこかで読んだ文章に「演者と視聴者」の二者によって構成されるキャラクター像という論説があった気がする(出典も思い出せないのはガバガバすぎる。草野原々とかかな?)。

ただ、自分は上の二者だけではVtuberを語るのは難しいと考えていて、そこに同僚・同期である他のVtuberの存在を無視してはならないのではないかと思いついた。というのも、演者の対話する相手が「視聴者」か「同じ存在のVtuber」かどうかで、その演者の発言の信頼度が大きく変化するように感じるからだ。

これはあくまで自分の感覚でしかないのだが、先述の通り、Vtuberという存在は常に「現実と空想」の狭間に落ち込んでいるものであり、それは画面越しに視聴者という存在がある以上、避けては通れないものである。

もちろんこれは現実の人間関係でもそうなのだが(貴方が話している自分が本当の自分とは限らない、その人の期待に応じて演じてしまうところがある)、現実との違いは「1対多」かつ「自覚的に演じる」コミュニケーションを強いられているところにある。つまりキャラクターとして自分を求めている「貴方」が多数いて分析不可能な点であることと、語尾や一人称、Vtuberとしての名前で呼ばれるということに自分から飛び込んでいるという点で、明らかに現実とは異なる「演技」という名の「空想」が多分に混じることになる。

しかしながら、これがVtuber同士の会話ともなると、更に様相は異なる。つまり、配信者がいる以上、演者は分析不可能な「貴方(キャラクター)」であることを求められて語尾や一人称を変えて演技をしなければならないとともに、コラボしているVtuberから観た「貴方」も演じなければならないのだ。ここの分析が難しいところで、人によっては現実の会話を模倣することで空想らしさが減少すると考えるかもしれないが、自分は演技が増すものだと考える。言葉選びが難しいが、同じ演技をしなければならないもの同士の結託めいたものが無意識にでも生じて、より一層「演技」をすることの強迫観念が強まるように思う。これは「一人で配信している方が、本当の自分の気持ちを吐露しやすいのではないか」「素の自分を見せてしまう『事故』率が高いのでは」という直観にも支えられている。

というわけで、自分の考えを纏めると

・コラボ配信での語りより、一人での語りのほうが現実感が増す。

というしょうもない一文に纏められる。

 

これを踏まえた上で、いよいよ百合の話に踏み込む。

ここからはTwitterでもダラダラと垂れ流したことだが、自分のなかでは「百合」とは物語に乗っかっている状態みたいなもので、(始まりと終わりがあり)現在進行で動きつつある感情を示しているものだと思う。つまり、物語に依拠せず俯瞰もできないレズビアン同士の感情(現実における、知り合いとの接し方だけで得られる情報量から構成されるもの)は百合じゃない気がしてしまうのだ。

もう少しかみ砕くと、当たり前のことだが、キャラは二次元の存在であり、自分たち三次元の存在によって自在に操られる点で操作・掌握可能なものである。一方で現実の人間を掌握できると考えるのは傲慢であり、基本的に自己と他者は対等であると考えるのが普通だろう。キャラのことを「完全に理解した」ということはできても(例えそれが見当違いだとしても)、友人Aのことを「完全に理解した」と言うのは憚られるし、現実的ではないだろう。つまり自分は、現実におけるレズビアン同士の関係もまた分析不可能なものであると考えるために、百合ではないと考えるのだ。

ここで更に話をややこしくするのが、自分独自の考え方だろう「キャラは演技をしない」という何の根拠もない直観である。自分はキャラは常に真実しか話さないものだと考えており、それは例え嘘つきなキャラでも「嘘つきである」という設定の上では真実を話していることになるからである。ここで自分の考えを支えているのが、「キャラクターは有限の設定から構成される分析可能な創造物」であるという認識だ。その一方で人間は、DNAからアミノ酸、タンパク質、組織や臓器から個体と構成され、無意識の原子から生まれるのに何故か途中で意識が芽生えるという点で分析不可能な矛盾を抱えている(ように思う。もっとも無意識な原子という前提が間違っており、原子自体も物理法則に従って動く点で意識的だということもできるが、それはそれ)。

纏めると、キャラは設定(他者との関係性含む)から分析可能であり、設定に基づく真実しか話さない(演技をしない)のに対し、人間に設定は存在しないために、演技をせざるを得ないのではないか、そして演技は真実を隠蔽する点で他者からの分析を不可能なものにするのではないか、という雑な認識をしている。

ここでようやく、Vtuberの語りの結論が活きてくる。自分は「Vtuberはコラボ配信での語りより、一人での語りのほうが現実感が増す」という風に考えていたが、その前提で考えると、自分の笹アンの入り口となった動画が「それぞれの気持ちを吐露する一人語り配信」だったのに対し、「ノエフレ」や「crossick」、「みらるた」の入り口はどれもコラボ配信だった。この入り口の違い(関係性を担保する信頼性、分析可能かどうかの直観)が、自分にとってかなりクリティカルだったような気がする。

www.youtube.com 

ここまで文字数を重ねて、Vtuberの百合を百合とするかどうか(ハマるかどうか)の自分の基準は「一人配信かコラボ配信か」でしたと書くのは非常にアホなように感じるが、事実これが一番自分が納得できる結論である。*1

なので、この記事を読んだ人のなかで、「一人語りから始まるVtuber百合」を知っている方がいらっしゃれば教えてくださると助かります。

笹アン、サイコ~!*2

*1:とはいえ、これだけで完全に自分のVtuber百合の問題が解決したわけではない。例えばみらるたの雑談配信(雑談とは言っていない)では明らかに後半から増してくる発言の真実性を無視することはできない。一方であの動画を観て自分の脳裏に浮かんだのは、「あいのり」や「テラスハウス」であり、あの空気が拒絶感を産んでいる(生々しい感情を十分受け入れる素地が自分にないかもしれない)ことと無関係ではないと思う。端的に言えばキモオタ童貞クンは現実の恋愛を理解できない/わかりやすい単純化された二次元の百合しか理解できないということになるのだが、これもまたクリティカルな気がしないでもない。そしてこれとはまた別件で、いくらVtuberだからといって、自分の大切な部分までコンテンツとして配信しなくてもいいのではないかという懸念もあり、それが百合として簡単に消費することの障害になっていることもあるのだと思う。

*2:ちなみに勘違いをされたら困るのですが、自分は「笹→アン」と「リゼ⇆アン」は両立するというスタンスでして、リゼアンの牙城を崩してまで笹アンを推し進めるつもりはさらさらないのですが、全く同じことを言っていた笹木さんが今では「リゼアンはガチ」と言うのを控え、なんとか「笹アンはガチ」にしようとしているのを観ると素直に応援したくなってくる点で厳しい状況に追い込まれています。俺は自らの手で(お前の手ではない)幼馴染みカプであるリゼアンを壊してしまうのか?それは自分の首を絞める行為では?俺はどうすればいいんだ、分からない、誰か助けてくれ。

イシグロキョウヘイ『サイダーのように言葉が湧き上がる』観た!!!!

cider-kotoba.jp

見ました!!!!めっちゃ良かった!!!!!!!!!!れ!!!2021年映画ランキング(ねぎしそ調べ)暫定1位の神作品です!!!!!!!!

……本当に大好きになったのでこの作品のどこが好きなのか書いていきたいと思います。上映している劇場が少ないような気がしますので、どうかお早めに。

①脚本がイイ!

まずなんといっても脚本がいい。佐藤大という有名作家を起用しただけあって、話の入ってきやすさが他の作品とまったく違うように感じた(これは演出の力も当然ある)。監督のインタビュー動画を観るとACDパートが佐藤さん、Bパートがイシグロ監督とのことだが、同一人物が書いたように綺麗に纏まっていたと思う。藤山さんの物語と、主人公のチェリーとスマイルの重ね方も上手くて、共通項としての出っ歯も良い。出っ歯のヒロインはなかなか観る機会がないだけに新鮮で、その動きを見ているだけでも退屈になりがちな日常が動いているような気がした。

「日常」について触れたので、続けて、この作品では様々な「異常」が「日常」を彩っているという話をしたい。自分が思いつくのは、以下の「異常」だ。

・十七歳の物語なのに、舞台は学校ではなくショッピングモール

・俳句が書かれる場は紙ではなく壁

・十七歳が老人ホームで働いている違和感

・労働中に装着するヘッドフォン

・ショッピングモールを疾駆するスケートボード

・近所のショッピングモールを練り歩くアイドル三姉妹

・入れ替わるスマートフォン

・CD製造工場の跡地としてのショッピングモール

これらに共通する「異常」とは、「本来あるべきではないところ」で物語が進んでいるという感覚である(テンプレから外れている程度のニュアンスで捉えて欲しい)。もちろん、すべてあり得ない設定というわけではないのだが、昨今のアニメやなろう小説で「異世界転生」などのテンプレが流行り、多くの作品としての方向に統一性が感じられるようになった自分にとっては、このような「異常」を敷き詰めた「日常」作品はかなり興味深く感じられた。

作品自体は、なんてことないただの青春恋愛アニメーションである。「俳句」という異常な要素は確かにあるが、俳句甲子園出場を目指すというようなスポ根に進むこともなく、骨格となる脚本はあくまで青春恋愛ものを徹底している。このようにスッキリとわかりやすい軸があり、ほかの「異常」はあくまで物語を彩る軽い情報量(しかし纏まることで深みを与える)をもつようにしているからこそ、誰が観ても話が理解しやすく、なおかつ薄っぺらくないアニメになっているのだと思う。青春ということで、キャラクターの成長をしっかり描いているところもよかった。

また、作品に深みを与えるものとして、伏線の回収の仕方も挙げられる。序盤でチェリーが退勤するときに出口でチラッと映った「だるま祭り」のポスターを観た時には「絶対にだるま祭りやるな」と思ったし、事実やったので気持ちよくなれた。途中のアレも「やるだろうな」と思ったらやっちゃうし、予測可能なシーンが多いところも理解しやすさの秘訣なのかなと(そういう意味では設定は「異常」でも脚本は「日常」なのだろう)。個人的にこのやり方は『バック・トゥ・ザ・フューチャー 』に近いものを感じるのだが(それくらいしか楽しい伏線回収映画の引き出しがない)、あのオモシロ伏線回収が好きな人はきっと楽しく観れると思う。

最期に構成だが、これもまた巧い。序盤に書いたが、この作品は藤山さんの物語と、主人公のチェリーとスマイルの物語が重ね合わさっていて、なおかつそれが舞台であるショッピングモールの歴史を紐解くきっかけにもなる。そのショッピングモールと歴史をともにする夏祭りがチェリーとスマイルの思い出の場所になるが、それは藤山さんの思い出の場所で……というように、意識が円のうえでスライドされていくのが気持ちいい。

音に拘っている、という点にも触れた方が良くて、自分もチェリーと同じく「俳句は文字で十分楽しめるもの」だと思っていた。しかし俳句は声にだすことで要素が付加されて、より魅力的になる。ここが本作の隠れたテーマに結びついているのではないかと勝手に邪推するのだけれど、チェリーがそうだったように、現状で満足している人間にとって、さらなる「要素」を不用だと思った時の振る舞い方が問われているのかなと感じた。というのも、チェリーは基本的に「音」を不用だと思っていて、それはなくても困らないし外部からの情報量を減らすことで安心できるからだ(ここにテンプレだが昨今の大量情報社会の文脈を加えてもいい)。それに加えて、スマイルはマスクによって「出っ歯」という要素を隠す・減らすことで安心できるという点で、チェリーと非常によく似ている。チェリーとのスタンスで違っているのがスマイルは自分から情報を所得しにいくところで(チェリーの俳句に「いいね」をする、「声が好き」だと言う、面白そうなことに首を突っ込む、介護のバイトを始めるなど)、この新たな要素を積極的に取り入れようとする姿勢はチェリーにはないもので、それが二人の出会いを生み出している。とはいえ、本当にチェリーは新たな要素の獲得に消極的なのかと言えばそうではなく(どっちやねん)、個人的には「俳句」という操作自体が、韻律という音を踏まえたり、換喩・文脈による新たな読みを求めたりと、17音の型にはめる点で情報量の減少を要請しながらも、結果的には情報量の増加を志向する言葉遊びだと思っている。そして言うまでもないことだが、二人の間で行われる俳句という型にはめた言葉のコミュニケーションは、日常言語での会話とはまったく異なる「異常」な言葉である。

そう考えると、この作品の設定自体が俳句のようなものであり、17歳の夏に17音の言葉に乗せて恋愛をする二人の物語に、自分が訳もなく涙を流すのも頷ける話である。

 

②キャラデザがイイ!

オタクが「このアニメオシャレだな~」と感じるところに、大抵その名前がある愛敬由紀子さんだが、この作品のキャラデザもまた愛敬由紀子さんだ(総作画監督もされている)。この時点で鑑賞者は勝ちみたいなところがある。

実際に公式サイトからキャラ一覧を覗いてみて欲しいのだが、やっぱりヒロインのスマイルちゃんがかわいい。下手すりゃ「オタクに優しいギャル」と評されそうなムーブをしてしまう彼女ではあるが、物語を見ていくうちに「ただのめちゃくちゃいい人」であることがわかっていくのもかなり良い。

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ヒロインのスマイルちゃん。かわいい

まあオタクなので見た目で一番好きなのはお姉ちゃんのジュリちゃんなのですが……。気になる人はここから観てください。

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③背景とかデザインがイイ!

この良さってなんだろうと思って公式サイトの監督インタビューを少しだけ観たのだけれど、影響を受けた例として以下の作家さんを挙げていて「なるほど」となったので共有。

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EIZIN SUZUKI – 鈴木英人公式サイト

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 わたせせいぞう -SEIZO STATION-

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永井博さんのTwitter (@hiroshipj)

これらすべて80年代のポップカルチャーという括りで良いらしく、80年代を知らなかった自分も、これら作品群を観れば「ああ、確かに影響をガッツリ受けているな」と理解できる。この色の違いを線によって丁寧に分け、背景の情報量を増やし、なおかつ色を思い切って変えることで色彩豊かにしていく手法は、いまは亡き焦茶さんのイラストに繋がっていたように思うが、それ以外ではあまり見かけないイラストだ。それを映画にして復活させてくれたのが嬉しかったし、このイラストの情報量から感じる不動のイメージと一致して、映画でも入道雲が書き割りのように一切動かないところがかなり良かった。躍動感があるのに動く気配がない、そういう背景が作品を綺麗に彩りながらも、キャラの動きに集中させる助けになっているように思う。

 

④演出もイイ!

冒頭のショッピングモール周辺をなめ回すようにローアングル?から映すカメラがかなり良かった。二人の日常を描くときにスプリットになるやつも自分はかなり好きで、スプリットの醍醐味でもある、同期するときと融合するときの気持ちよさも良かった。最期にそれとなく示す二人のキスシーンも分かっている人の演出で助かる。観ていて気持ちいい映像が多くて良かった。

 

⑤音楽もサイコー!

牛尾憲輔という自分でも知っている超有名作曲家を据えたこの作品は、これら特徴的な設定・背景にぴったりマッチしていてびっくりした。音楽の知識に疎いのでうまく表現できないのがもどかしいが、本当に良かった。主題歌を担当していたnever young beachも、ぷちぷち感が作品のタイトルにもなっているサイダー、そして青春のイメージとぴったり合っていて本当に良かった。最高です。

 

まとめ

 絶対に観るべきアニメ2021ランキング1位になっています、今(2021/08/04 6:47現在)。本当にいろいろ良くてかなりボロボロ泣いたので、絶対に多くの人に観て欲しい映画です。頼む。

 

細田守『竜とそばかすの姫』観た!

この先『竜とそばかすの姫』のネタバレを含みます。

未視聴の方はまず観てから読んでください。

 

 

 

 

 

ryu-to-sobakasu-no-hime.jp

非常に評価が難しい作品だな、というのが率直な感想だ。そして大雑把に分けると、映像や音楽では素晴らしく、脚本が酷いといういつもの細田作品の感想に落ち着いてしまうという点では、予想通りの細田監督作品になっている。

 

 

 

良かったところ

①インターネット空間「U」の直方体・色・月

サマーウォーズ』でやっていた時とインターネットの表現方法はそこまで大きく変わっていない(進歩していないとも言う)が、直方体を配置する点で新鮮に思えた。どちらかといえば曲線のイメージがあるU・インターネットの情報をイメージする球(あるいは点)にとって、直方体の積極的な配置は違和感を生み出す効果があるように思えて面白い。

また、オレンジと青の補色を効果的に用いているところも魅力的だった。インターネットの構成要素は0と1の正反対の数字であるから、色においても黒と白、赤と緑などの補色を用いるのがベストに見えるし、それを青とオレンジでしっかり映像に落とし込んでいるのは良かった。

また、Uの最果ての演出であろう水平線に向けての集中線と三日月、波形が集っている光景は圧巻の一言。ここではUと三日月が対応しており、なおかつ満月という「満たされた」状態になることができる三日月の形と、Uという満たされない人が満たされるための場が重なっている点でも美しい。

 

②母の死に方へのフォロー

「実の子を見捨てて他人の子を救うのか」と困惑したのだが、これまでの細田守ならスルーしていた不満をすぐにインターネットの声として処理したところが「観客の気持ちを分かっている!成長している!」と感動した点(本来なら当たり前なのだが)。ただフォローのやり口は気に入らず、棒読みの音声では残念ながら庶民性を示すよりも先に違和感を覚えるし、作品への没入感を損なうことになる。勿体ない。

 

③中村佳穂さんの歌唱力・millennium paradeの音楽

作品として最も重要な「歌」を担う中村佳穂さんの声があまりに力強く、びっくりした。これに関しては文句なしで、歌姫の説得力を感じられるものだった。一夜にして謎のAsが有名になるというアレな展開でもこればっかりは受け入れられるでしょう。

また、millennium parade『U』の音楽のパレード性が抜群で、「インターネットという煩雑な世界における興奮」というイメージがダイレクトに伝わってくる印象がある。実際にこの音楽は作品内で一番初めに流れる音楽のはずなのだが、これからのインターネットへの期待に胸を震わせるすずの気持ちとして非常に良いものに感じる。

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④ルカちゃんが演奏しながらカミシンを気に掛けるカット

あそこの映像がのちの伏線になっているのだが、あの辺りのドギマギしながら演奏する描写は躍動感に溢れていて好きだった。

 

⑤田舎から学校に通う通学路のシーン・閉塞感の表現

あの辺りのテンポの良さは自分好みだった。自然描写が好きなのもあり、田舎特有の立地が魅力的。また冒頭で一度の画面に「母の喪失に傷を負ったすず・縁の欠けたマグカップ・後天的な事故で足を一本なくした犬」が収まるカットがあるのだが、それを受けてダメ押しの「9月末でのバス路線の廃止」がかなりよかった。田舎に加え、どんどんすずの居場所が住みに追いやられている光景を序盤に見せることで、すずの立ち位置を観客に効果的に理解させることができる。

ただ、個人的に学校の有名人紹介があまり面白くなかった。ウテナかよって感じの有名人に対する取り巻きの多さは異世界染みていたし、その有名人とすずを比較する台詞を口にさせなくても、察しのいい観客はちゃんと理解できる。このあたりはスマートでは無かった。

 

⑥Belleが一夜にして話題になる編曲メドレー

これが本当に素晴らしかった。Belleの様々な側面を次々と音楽の切り替えとともに見せてくれるのは嬉しいし、ここでかなり心を掴まれた感がある。

ただ、そのあとの大衆の声の表現はつまらないので辞めた方が良い。

 

⑦崩壊するお城で色収差を扱うシーン

よくみれば崩壊を意味するために映像をずらし、色収差を与えていた。美しくてかなり良い。サマーウォーズのインターネット空間でも似たような加工をずっとやっていた気がするのだが、気のせいかな?

 

⑧ルカちゃんがカミシンに告白するシーン

めちゃ好き。細田守の固定カメラで長回しするの大好き。ずっとこれで本編を撮れ!

 

⑨生身ですずが歌唱するシーン

何も言うことがないレベルで素晴らしかったしボロボロ泣いたが、最期あたりにアイドルのコンサートみたいに(アイドルなんだけど)みんなの声で歌うよ~ってなるシーンは微妙だった。

 

良くなかったところ

ルッキズムから逃れたのに美女と野獣をやる

好きな容姿になれるインターネット空間で、容姿への偏見の解消によって感動が生じる物語を再演して何がやりたいのか全くわからない。しかもあえてそこに踏み込んで精神の交流を行ったというのに、結局は顔出ししてリアルであうのが一番!という展開にするのも腹立たしい。美女と野獣、本当になんなんだ。

 

⑪Belleの最初から歌姫全開感

Asとして容姿に格差がありまくるのが厳しい。本当のインターネット空間はオタクのアイコンを見ればわかるように著作権を無視したアニメ美少女・イケメンが大量に溢れているのにそういうのが一歳ない。にもかかわらずBelleだけはしっかり美女をやっているので、なんだかなあという気分になる。

 

⑫数億人が利用するプラットフォームのサーバ代を賄う広告はどこ?

Uは明らかに無料アプリのはずなのに、その運営費を賄うだけの広告が一切見当たらないのがかなり気になった。いまやインターネットと広告は切っても切り離せない関係にあるはずで、なおかつ自警団にスポンサーが大量についているのに広告には金を出せないというのは理解できない。みんなちゃんと月額費を払ってプレイしているのだろうか?有料のSNSが全世界に普及しているとは思えないのだけれど。

 

⑬アカウントブロック機能がない

なぜ生体認証というナイーブな機能を付けている世界において、運営が危険なアカウントを取り締まる機能がないのか疑問でしか無かった。民度がヤバいメルカリでも垢バンはあるのに、Uにないのは道理が通らない。そのせいで自警団が発達することになるのだが、そんなふざけたことがあるかよ。結局あの権限を有しているということはUを運営する会社の社員でしかあり得ないはずなのだが、どうなのだろうか?何もわからない。ガバガバすぎる。

 

⑭クラスグループでのいざこざ

ボードゲームかソシャゲ風味か知らんが、あんなゴミみたいな演出をするな。

 

⑮見知らぬ子供への虐待の対応が雑

リアルな虐待風景、言葉のセンスは良かった(ウチの近所で暴れていたおばさんも似たような声を挙げていたし、自分も一時期そのような声を浴びせられていたのでリアリティがある)。見ていてかなり苦しいところではあったが。

ただ、そこまではよくても虐待の発覚から解決にかけての流れがあまりに酷すぎる。「顔を出すことでしか信頼は勝ち取れない」とインターネット初心者っぽいしのぶが言うことに真に受けて顔出しをするという流れは目も当てられないほど酷いものだった。なぜ全世界に自分の顔を公開せねばならないのか、そのリスク管理が杜撰すぎる。あの動画からのアクセスは無理でも、(Belleが歌えば竜が来るという設定を活かせば)Uで出会って個人的にメッセージをやりとりをしたりボイチャで歌ってあげることもできるだろうし、そもそもUでダイレクトメッセージ機能が使えないわけがない。顔を出す必然性がないままに顔をだしてはいけない。

また、子供に手を挙げるようなガチでやばい中年男性がいるところに生身の未成年の娘を勝手に行かせる大人連中がどう考えても頭イカれていた。他人の娘じゃないのか、勝手に電車に乗らすな!と頭が痛くなるし、どうしてもひとりで行かせるのなら警察に相談するように父親はアドバイスをするべきだし、とにかく子供を親の目の届かないところにひとりで行かせてはいけないし、どうしてもそれをやるなら親や周囲の大人がしっかりとサポートをすべきだ。駅まで送って後は頑張れって、何を考えているんだ。

本当にそのあたりのフォローをしっかりやれよとイライラした。しかも最終的に①子供が親の監視をかいくぐって外に出る、②すずが大人と対峙して睨んで勝つ、③これからは僕も大人に勝てるように頑張ります!

というクソみたいな流れになるのが許せない。これは助けていないも同じで、毒親から本当に助けたいのなら虐待風景を児相や警察に相談したり、アザがあるならその証拠をしっかり提出して別居するほかない。確かに周囲の大人は頼りにならなかったかもしれないが、これでは本当に大人は役立たずで子供の力だけでなんとかするしかないというメッセージになってしまう。そうではなく、大人からの加害には大人の力は不可欠なのだ。家庭内で権力をふるうものには、外部で権力を持つ者をあてがうしかないのだ。そのあたりへの配慮を欠いた作品を自分は到底受け入れることができない。このあたりの大人の責任については、『モブサイコ100』がかなり丁寧に描いているので細田守モブサイコ100を見た方が良い。

 

以上。

感想を総合すると音楽や一部の演出の良さを脚本が打ち消している非常に勿体ない内容となった。脚本家が考えた整合性・説得力のあるストーリーで(下敷きは細田守で、誰かに監修してもらっても全然良い)、のびのびと演出をする細田守の映像がみたい……。

カート・ヴォネガット「スローターハウス5」伊藤典夫 訳 読んだ!

ヴォネガットのなかでもかなり名作と名高いこの書籍だが、恥ずかしながらこの歳になるまで読んだことがなかった。というか自分は世間で言われている名作の0.01%も読んでいなさそうだから、今後この恥ずかしい云々の定型文は書かないようにします。

感想だが、かなり面白いと認めざるを得ない。さほど長くない中編小説だが、主人公であるビリーを時間旅行者としたことによって、圧倒的に重厚な作品構成を実現している。この設定がテッドチャンの「あなたの人生の物語」の下敷きになっていたらしく、これまでテッドチャンに向けていた尊敬の念の1割をヴォネガットに向けることになった。たった1割だけの理由として、元ネタとはいえSF作品としての美しさでは「あなたの人生の物語」には適わないなというのが率直な感想だからだ。とはいえこの作品は半ば自伝でもあるドレスデン爆撃から生き残ったヴォネガットの生涯や死生観を綴った私小説とも言えるものであり、その死生観を作品構成と「そういうものだ」の一言がしっかりと補強しているからこそ輝くものがある。ビリーはひたすらに惨めな存在で、社会から認められるのは眼科医になってから「目覚める」までのごく僅かな紙面にすぎない。大幅に記述されているのはやはりドレスデン爆撃についてで、誰も予想していなかった爆撃、という驚きがビリーの眼科医としての活躍とも重なるようで面白い。また、空飛ぶトラルファマドールの円盤のなかでのビリーの体験はすべて妄想だと一蹴されてしまうが、実際に戦争を体験したことがない自分たちの世代の目には、ドレスデン爆撃も同様の絵空事に映ってしまう。誰も信じることができないような戦争をビリーは経験していて、それにより死を終わりではなく一種の状態として考えることになる。死を「そういうものだ」と捉えることでしか精神を保てない、あるいはそう考えることができたからこそ、精神を保てるようになったのかもしれない。戦争に行っていない人間や殺戮を目にしていない人間には到底信じられないことをどのように伝えるか、それがこの小説や作中のラジオで行われている実践なのだが、自分たちはいずれにしてもフィクションとしてしか理解できない。

と、ここまで書くとこの作品を「意見のない戦争SF小説」にしてしまうのだが、さらにしっかりとメタ的な構造を取り入れている点で、戦争に対するヴォネガットの明らかな姿勢がわかるようになる。というのも、「スローターハウス5」は作品中の9割を「子供十字軍・死との義務的ダンス」というタイトルの戦争小説に割いている。この作品は子供(つまり役立たずのビリー)を主人公に置くことで戦争への批判を行うと明記しており、なおかつあくまで冒頭を「わたし」が語ることにより、フィクションとしての戦争小説の記述力の弱みをしっかり補えているように思えるのだ。この点が非常にヴォネガットの上手いところであり、この最初の1割のページがあることで作品全体の価値がグッと高まっているように思える。時系列のなめらかな繋ぎ方、毒のあるもの言い、ヴォネガット特有の人間の愚かさを俯瞰するかのような視点が非常に面白かった。傑作。